学生時代の仲間と30年ぶりに麻雀をしました。

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こんにちは,鹿野一郎です。
今日は2023年2月2日の木曜日です。
1月29日の日曜日に、学生時代のバイト仲間で集まって、30年振りに麻雀をしました。
月日の流れは本当に早いです。

僕は大学生の時は小中学生向けの学習塾でアルバイトをしていました。
千葉市内の塾で僕は算数、数学の先生をしていました。
僕は20歳の3月にこの仕事を始めましたが、その年の夏期講習からPOSOとE先生が塾に入ってきました。


POSOは僕より4つ年上の24歳で、社会科の先生でした。
サラリーマンをやっていたんですが、それをやめて、針灸の資格を取るために新宿の学校に通っていました。
学校は昼間だったので、夜は塾でアルバイトをしていたんです。


E先生は僕と同い年で、当時千葉大の学生でした。
E先生は英語の先生でした。

塾では大勢の仲間に恵まれて、毎年のように10人ぐらいの規模で忘年会をやっていました。
この5年ぐらい途絶えていましたが、年賀状をきっかけに今回の麻雀大会が実現しました。
今年E先生からもらった年賀状に、今度麻雀をしましょうと書いてありました。


もう一人、僕より2つ年下で国語の先生だった佐トッチからもらった年賀状にも、今度麻雀をしましょうと書いてありました。
こうなったら本当にやるしかないと思い、POSOを誘って4人で麻雀をやることになりました。

僕の家は千葉県佐倉市、POSOの家は千葉県香取郡神崎町、E先生の家は埼玉県和光市、佐トッチの家は千葉県船橋市なので、集まるなら新橋が良いと思いました。


そしてメールのやり取りで日程を調整し、1月29日の日曜日に決まりました。
学生時代は徹夜で麻雀をしていましたが、もうみんないい年なので、昼に集まって夕方に解散という手筈にしました。
麻雀をするのは久し振りでしたが、あまりにも忘れていることが多くて、驚きました。

久し振りの再会

僕は当日、10時頃に家を出て新橋に向かいました。
待ち合わせは新橋のSL広場のSLの前に12時です。
新橋についてホームからコンコースに上がっていくと、若い女性の「わあ、久し振りいい」という声が聞こえてきました。
それを聞いて僕は、「僕もこれから懐かしい友達に会うんだよ」と心の中で思いました。


POSOとは2ヶ月に1回合同トレーニングで会っていますが、E先生に会うのは2017年の2月以来6年振りで、佐トッチに会うのは、2010年の忘年会以来13年ぶりでした。
6年前にE先生に会ったのは、僕が持っていたTMスポーツというブランドの似非ダンベルを譲るためでした。
野田のラーメン屋で待ち合わせをして、ダンベルを3つ譲りました。
どのくらいの重さだったかよく覚えていませんが、記憶で書くと、プレートは10kg2枚、5kg6枚、3kg4枚、2kg4枚、1kg4枚、0.5kg4枚ぐらいだったと思います。

今、当時に投稿を読み返してみましたが、寄贈したプレートは20枚で合計重量は64kgだったそうです。
上記の記憶は大体合っていますが、3kg4枚だけは嘘でした。
3kgのプレートは存在していなかったようです。
僕がこのダンベルを必要としなくなったのは、これが非規格品の似非ダンベルで、28mm規格の正規品との互換性がなかったからです。


あれからもう6年が経過しました。

佐トッチに最後に会ったのは、2010年にPOSOがとうとう結婚することになった時です。
その時の忘年会に、POSOの婚約者の女性にも来てもらいました。
その時に佐トッチに会ったのが最後でした。

久し振りに会ってみると、みんなほとんど変わっていませんでした。
E先生は本当に全く変わっていなくて、白髪もなく、相変わらず背が高かったです。
体型も見事に維持していて、中年太りとは無縁でした。


佐トッチは白髪が少し出て頭がグレーになっていましたが、他は全く変わっていませんでした。

僕は予備校講師をしています。
POSOは鍼灸マッサージ師を本業とし、他に副業でネットビジネスをしています。
E先生は研究者で、タンパク質の研究をしています。
佐トッチはサラリーマンで、大手不動産販売会社で働いています。

30年ぶりの麻雀

全員揃ったので、雀荘に歩いて行きました。
流石に日曜日の昼間なので、空いていました。
僕たちの他は30歳前後の若いお兄さんの4人組がいるだけでした。

まずは場所決めです。
僕はやり方をすっかり忘れていました。

鹿野一郎
鹿野一郎

これって、勝手に座っていいんだっけ?

と問うと、佐トッチが教えてくれました。


「まずはみんな適当に座るんですよ。そして、これを1枚ずつ引くんです。」と言って、トンナン西シャーペイハクの5枚を集めて裏返し、かき混ぜます。
白を引いた人が座っている場所が東で、時計回りに南、西、北と座るんです。


僕はその説明を聞いて思い出しました。
そういえばそうだった。
あまりにも長い間やらなかったので、完全に忘れていました。

場所も決まったので、ついに麻雀が始まりました。
全自動卓のスイッチを押すと、卓の下から牌が出てきます。
牌が出てきたときに強烈な違和感を感じたんですが、何がおかしいのかわかりませんでした。
すると、佐トッチが口を開きました。

もう配牌が済んでる。ドラもめくられてる。

それを聞いて僕は違和感の理由がわかりました。
昔の全自動卓は、そこまではしてくれませんでした。
牌の山が出てきたら、親がサイコロを2個振って、どこの山を割るかが決まります。
2が出たら右の人の山、3が出たら対面の人の山、4が出たら左の人の山を割ります。
そういえばこんな言葉がありましたね。
完全に忘れてしました。

 ウニ      2が出たら右の人の山を割る
 トイサン    3が出たら向かいの人の山を割る
 サシ      4が出たら左の人の山を割る
 ジゴ      5が出たら自分の山を割る
 ウロク     6が出たら右の人の山を割る
 トイシチ    7が出たら向かいの人の山を割る
 サッパ     8が出たら左の人の山を割る
 ジク      9が出たら自分の山を割る
 ウジュウ    10が出たら右の人の山を割る
 トイジュウイチ 11が出たら向かいの人の山を割る
 ヒダリジュウニ 12が出たら左の人の山を割る


親がサイコロを振ることによって、どこの山のどの位置を割るかが決まるんですが、今回の全自動卓は最初から山が割れていて、ドラまでめくれていました。


つまり、もう親がサイコロを振る必要はないんです。
では、何のためにサイコロがあったんでしょうか?
ボタンを押すとサイコロが自動的に振られるようになっていましたが、そもそも必要ないのではないかと思いました。
ここに、全自動卓の進歩を感じました。

麻雀が始まってしばらくの間は、お互いの近況報告に花が咲き、麻雀は二の次でした。
今回のメンバーで唯一のサラリーマンである佐トッチに、どのくらい出世したかと尋ねたら、まだ平社員ですよという返事が返ってきて一同驚きました。


佐トッチはもう53歳ですよ。
千葉東高校から早稲田大学政治経済学部に進んで、現在の不動産販売会社に入ったんですが、層が厚くて出世できないそうです。
また、出世しても給料は上がらないし、出世したいという意欲もないそうです。


最近は仕事が少なくて、残業がほとんどなく、大体定時で帰れると言います。
これにも驚きました。
日本のサラリーマンは始発から終電まで働いているイメージしかなかったからです。


朝の通勤ラッシュは地獄なのではないかと尋ねると、確かにそうだけど、時差通勤も認められているからそれほどでもないという事でした。
日本のサラリーマンも随分変わった物だと思いました。
1980年台の日本のサラリーマンは、死んでもいいから働け!という感じだったように思います。

ところで、麻雀をしていてとても強い違和感を感じていました。
それが何なのかわからなかったんですが、何かが変だと感じていました。
やがてたかったのですが、それはツモ順でした。


最初、僕たちは時計回りにツモっていました。
つまり、僕の右の人がツモって捨てると、僕がツモって捨てるという具合にやっていました。
でも、僕の左に座っている佐トッチが牌を捨てると、反射的に僕の右手が伸びて、牌をツモろうとするんです。
その都度、トイメンに座っていたPOSOが、「何をするんだよ?俺の番だろ!」と言いながら笑っていましたが、何度もこれを繰り返すうちに、ツモ順が逆なのではないかと思い始めました。


ツモの順番を体が覚えている可能性があります。

僕が言葉にしてそれを言うと、POSOが「じゃあ、あの人たちに聞いてみよう。」と、4人組のお兄さんたちを指して言います。
いくらなんでもそんな恥ずかしい質問はできないので、強く反対すると、じゃあ、横目で見ていようという事になりました。
すると、やっぱりツモ順は時計回りではなく、反時計回りでした。
僕の体が覚えていたツモ順が正しかったんです。

それに気付いてからも、その局は時計回りにツモって、次の局から反時計回りにツモることにしました。
すると、全員がこっちの方がしっくりくると言いました。


そしてPOSOが思い出したように、「そうだよ!チーは左から鳴くじゃないか。」と言いました。
僕とE先生と、佐トッチは声を揃えて、「ああ(納得)」と漏らしました。
僕はここで初めて、上家カミチャ下家シモチャという言葉を思い出しました。
上家が左で、下家が右でしたね。
完全に忘れていました。

ターハイ、ション牌、フリテン、型式テンパイ

僕たちはこの日、ハンチャンを3回やりました。
3回とも僕がドベチャ(ビリ)で、そのうち2回は焼き鳥、1回はぶっ飛び(ハコ)でした。
本当にさんざんな内容でした。


2回目のハンチャンでは、よりによってターハイでチョンボをしてしまいました。
ターハイは即チョンボというのは覚えていました。
僕がターハイをしていることは僕だけが気づき、他は誰も気付いていなかったんですが、即チョンボのルールに則り、自分から申告してチョンボになりました。


なぜターハイをしたのかわからなかったんですが、チュンをポンしたときに牌を切らなかったからだと後でわかりました。

久し振りすぎて忘れていました。


僕がターハイを申告してチョンボになると、3人は黙っていればごまかせたのかも知れないじゃんと言います。
そのまま誰かがあがるか、流局になればターハイがバレずにチョンボをごまかせたかも知れないというのです。


言われてみればそうですが、そういう知恵は回りませんでした。
ターハイ即チョンという言葉が頭に残っていたので、自分から申告しました。

ちなみに牌が少なくなってしまうション牌はチョンボではなく、アガリ放棄で済むそうです。


フリテンでロンをしたらチョンボですが、フリテンでも流局すればテンパイになるそうです。


役がない形式テンパイは、チョンボだと思っていましたが、ちゃんとテンパイと認めてくれるそうです。
やればやるほど、ことごとくルールを忘れていることに気づかされました。

30年がひとまたぎ

3回目のハンチャンになると、近況報告も終わり、勝負に集中します。
そうなるとまるで大学生に戻ったような気分になりました。
佐トッチも言っていましたが、この4人でこうやって麻雀をしていたのが、昨日のことのように感じました。


あれから30年が経過したなんて嘘のようです。
人生というのは本当にあっという間に過ぎる物だと強く感じました。

あの頃の僕にとって、麻雀はお金を稼ぐ手段でした。
雀荘でやるならば場代がかかるので、余程大勝ちしない限りお金をもらって帰ることはできないんですが、それでもお金を稼ぐためにやっていました。


そんなに麻雀が強かったのかというと、勝ちより負けの方が多くて、やればやるほど友達への借金が膨んでいく状態でした。


あの頃は本当にお金がなかったので、麻雀で負けるだけでかなり不機嫌になっていた物でした。
そう思うと学生時代は遠い昔のように感じるんですが、実際に麻雀卓に彼らと座ると昨日のことのように思います。
とても不思議な感覚でした。

大学の卒業旅行は佐トッチと2人で長崎に行きました。
僕の車で千葉から運転して行きました。
馬鹿な話ですが、千葉から長崎に行くのに道を間違えて瀬戸大橋を渡り、四国に上陸してしまったので、松山からフェリーで小倉まで行って、そこから長崎を目指したのでした。
1993年の話ですが、ほんの数年前の話に感じます。

次回は5月21日になりました

僕は夕飯までには家に戻ると言って出てきたので、新橋の雀荘を5時には出なければなりません。
3回目のハンチャンが終わったのは4時40分だったので、それで終わりになりました。


POSOは、次回はいつにするか?と言います。
E先生はいつでも良いと言います。
佐トッチもいつでも良いと言います。
でも僕は大負けをしたばかりなので、次の麻雀のことは考えたくありませんでした。

POSOは2ヶ月に1回やろうと言いますが、それでは頻度が高過ぎるから、4ヶ月に1回にしようと僕が提案し、次は5月21日になりました。
もう日付まで決まってしまったので、次はメンバーを8人に増やして2卓囲みたいと思います。


メンバーはあと6、7人いますが、日曜日は塞がっている友達が2人いるので難しいかも知れないです。
その2人は今でも学習塾の先生をやっていますが、どちらの塾も日曜日はびっしり授業が入っていて、1週間で一番休めない曜日なんです。
なので難しいかも知れないです。
でもまだ時間があるので、全員と連絡をとってみたいと思います。

鹿児島に何がある?

最後は話が変わって、男の一人旅の話です。
3月にまた行く予定です。


車で鹿児島に行こうと思っていましたが、あまりにも遠いので、ちょっと尻込みしています。
1994年に予備校の先輩の先生と2人で、車で高知、宮崎に旅行に行きました。
先輩の先生は免許を持っていなかったので、すべて僕が運転しました。
宮崎から千葉までの帰りの運転はほぼノンストップだったので、過酷を極めました。

当時は九州の高速道路がまだ今ほど整備されていなかったので、宮崎から千葉まで23時間かかりました。
休憩は給油の時にトイレに行くだけで、他はずっと走っていました。
水と食料は車の中にたくさんあったので、運転しながら飲食していました。
あの23時間の運転は本当に過酷でした。

午前9時頃に首都高速に入った頃には発狂しそうになっていました。
今はもう若くないのであんな真似はできません。
鹿児島まで行くならば、途中で1泊して2日かけて行くぐらいの感じでないと無理だと思っていました。


ところが、ところがですよ、Google マップで調べてみたら、うちから鹿児島中央駅まで車で17時間で行けると言います。


なんで?と思いましたが、それは九州の高速道路が整備されたからでしょう。
17時間なら昔より大分早いですが、それでも55歳の僕には一気通貫で行くパワーはないです。

では、新幹線で行ったらどうか?と思って調べてみたら、なんと東京駅からたったの6時間50分だと言います。


1995年頃に1人で長崎まで電車で行ったことがありますが、あの時は東京駅を6時に出る新幹線で出発しても、長崎に着いたのは夕方でした。
それを思うと、東京から鹿児島中央まで6時間50分というのは信じられない速さです。
さすが新幹線です。


1人で長崎に行った時は東京から博多までよりも、博多から長崎の方が時間がかかりました。
今はどのくらいで行けるのかと思って調べてみたら、なんと博多から長崎は1時間半だそうです。
いくらなんでもそれはないだろうと思うんですが、1時間半で行けるそうですよ。


では昔のあれはなんだったんでしょうか?
特急で行ったつもりでしたが、各駅停車だったんでしょうか?
とにかく途方もなく遠かったのは覚えています。

新幹線で鹿児島中央まで行く場合、乗り換えは博多ではなく、なんと新神戸だそうです。


新神戸でなんとかという新幹線に乗ると、一気に博多中央まで行くそうです。
そういう話を聞くと俄然新幹線で鹿児島に行きたくなりました。
そもそも新幹線が本州から九州に入る時は関門橋を渡るのか、海底トンネルを通るのかも知らないです。
正確には覚えていないです。


車で関門橋を通った時のことははっきり覚えていますが、新幹線では全く記憶がありません。

いろいろ考えると胸が膨らむんですが、新幹線で鹿児島に行った場合、鹿児島で何をするのかという問題が浮上しました。


電車で行くということは、現地で車はないです。
鹿児島には地下街も地下鉄もないそうなので、私鉄を乗り回したり、博物館に行ったりするのが主な観光になりそうです。
でも、車がないと、行っても楽しくなさそうです。


というより、鹿児島そのものに興味があるわけではなく、そこまで車で行くことに興味があるようです。

妻には1人で鹿児島に行きたいと伝えましたが、全否定はされませんでした。
旅行に行くのは構わないけど、無茶なドライブはしないで、もっと近い目的地にすればいいじゃないと言われました。
おっしゃる通りで、反論の余地はありませんでした。


おそらく今回は鹿児島行きは断念することになると思います。

かわりに今考えているのは四国です。
明石海峡大橋を渡って淡路島に入り、大鳴門橋を通って四国に上陸し、数日滞在してから瀬戸大橋で本州に戻って帰ってくるのは面白そうです。
多分そういう旅行になるでしょう。

昔、鹿児島は旅行で通過したことがあります。
学生時代の友達のスガ、大山さんと3人で僕の車で千葉から出発し、船で淡路島に上陸し、船で四国に上陸しました。
あれは1994年のことで、まだ明石海峡大橋も大鳴門橋もありませんでした。
四国の宿毛すくもというところからフェリーで九州のどこかに上陸し、宮崎県の海岸線を南下して鹿児島県に入りました。
そして桜島側からフェリーで鹿児島市街地側へ渡り、そのまま北上して阿蘇山に行ったのでした。


鹿児島では食事をしましたが、ラーメンが200円で安くて驚きました。
床屋も2000円で安くて驚いたのを覚えています。


鹿児島に行くと言ったら、友達のヒゲさんから、西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)の入場券を買ってきて欲しいと言われたので、買って帰りました。

珍しいお土産です。


その時に鹿児島駅よりも西鹿児島駅の方が栄えているんですよと教えてもらったんですが、それが今の鹿児島中央駅で、新幹線の終点になっている訳です。


ヒゲさんとは今でも年賀状のやり取りはしていますが、もう20年近く会っていないです。
鹿児島に車で行くのは、1人ではかなりハードルが高いですが、いつか実現したいです。

ちなみに、明石海峡大橋、大鳴門橋、瀬戸大橋、しまなみ海道はすべて車で走ったことがあります。
学生時代に仲間とドライブに行きました。
考えてみればすべて僕の車でした。
8人乗りの車を持っていたので、自動的にそうなったんです。
とても懐かしいです。

今回はこんなところです。
ありがとうございました。

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