こんにちは、鹿野一郎です。
今日は2023年10月30日の月曜日です。
もう10月も終わりだというのに、暖かいですね。
今年の日本の8月と9月の平均気温は、過去126年の観測史上で最も暑かったと何かで読みましたが、10月もそうかも知れないですね。
7月の初めにベントオーバーローで軽く腰を痛めて、しばらくスクワットとデッドリフトを休むことにしました。
そのまま夏期講習に突入して、結局、7月と8月は全くこの2種目はやりませんでした。
9月からリハビリを開始したんですが、若い頃に比べて回復がとても遅いです。
僕は今56歳ですが、9月からスクワットを毎週やってきて、ここに来てようやく7月時点のパワーを取り戻しつつあります。
実に2ヶ月もかかりました。
若い頃だったら、リハビリにこんなに時間はかかりませんでした。
やっぱり歳をとると色々なところが衰えていきますね。
デッドリフトも9月からリハビリをしているんですが、デッドリフトはかなりまずいです。
7月のパワーを取り戻すのはもう少し先になりそうです。
10月の初めの頃に、ベンチプレスが異常に挙がらなくなりました。
右腕に力が入らないんです。
19年前にも同じ経験を左でしているので、すぐに理由はわかりました。
首です。
首の関節が潰れて、神経を圧迫しているため力が入らなくなったんです。
なのですぐに整形外科に行って診てもらいました。
その結果、首の関節が全部潰れていると言われました。
19年前は上から6番目の骨と7番目の骨の間の関節が潰れて神経を圧迫していたんですが、今回は全部潰れていると言われました。
さすがにショックでした。
怪我をしているなら仕方がないので、当分の間ベンチプレスは休むことにしました。
他にショルダープレス、ライイング・トライセップ・エクステンションも休むことにしました。
12月10日にパワーリフティング千葉県大会がありますが、ベンチプレスは絶望的なので、スクワットとデッドリフトで自己ベスト更新を目指します。
目標はスクワット175kg、デッドリフト190kgです。
最近のスクワット
スクワットの記録を見返してみると、8月27日から9回スクワットをやってきて、確実に筋力は戻ってきています。
後は試合会場で175kgをきっちり成功させるだけです。
これまでのトレーニングの内容を簡単にまとめると以下のようになります。
8月27日(日)リハビリ1 体重75.7kg
140kg 3回、3回、3回
140kgが信じられないほど重かったです。
9月2日(土)リハビリ2 体重76.1kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 1回
2サイクル目 140kg 5回、160kg 1回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 1回
160kgが信じられないほど重かったです。
9月10日(日)リハビリ3 体重76.0kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 1回(2回目で↓)
2サイクル目 140kg 5回、160kg 2回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 1回
160kgで潰れました。
9月17日(日)リハビリ4 体重75.5kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 3回
2サイクル目 140kg 5回、160kg 3回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 2回
160kgのしゃがみはまだ甘かったと思います。
10月1日(日)リハビリ5 体重75.3kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 3回
2サイクル目 140kg 5回、160kg 3回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 1回(2回目で↓)
この辺りから160kgでもしっかりしゃがめるようになったと思います。
10月8日(日)リハビリ6 体重74.2kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、170kg 1回
2サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、170kg 1回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 2回、170kg 1回
170kgはなんとか立ちましたが、しゃがみが浅かったと思います。
10月16日(月)リハビリ7 体重75.4kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、170kg 1回
2サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、170kg 1回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、170kg 1回
170kgが軽く感じるようになってきました。
10月22日(日)リハビリ8 体重75.7kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、170kg 1回
2サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、170kg 2回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 4回、170kg 1回
全てきっちりしゃがむ事が出来たと思います。
170kgが連続2回あがりました。
10月28日(土)リハビリ9 体重75.7kg
1サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、175kg 1回
2サイクル目 140kg 5回、160kg 3回、175kg 1回
3サイクル目 140kg 5回、160kg 2回、2回
175kgがあがるようになりました。
12月10日のパワーリフティング千葉県大会では、スクワットで175kg、デッドリフトで190kgを成功させることが目標です。
出場階級は74kg級です。
あともう少し体重を落とさなければならないです。
6月に79.5kgから減量を始めました。
目標は11月中に70kgまで落とす事だったんですが、全然ダメです。
7月ですでに74.2kgまで落ちていたんですが、そこから先が全くダメです。
まだ諦めていませんが、70kgという目標はどんどん遠ざかるばかりです。
試合ではスクワットの試技は、1本目は160kgで確実に成功を取りに行き、2本目で目標の175kgにチャレンジしたいです。
もし175kgが成功するようだったら、3本目は180kgに挑戦するつもりです。
考えてみれば、175kgというのは去年の11月の関東大会での目標でした。
関東大会では2本目と3本目に175kgに挑戦し、どちらも立ち上がりましたが、失敗になりました。
2本目は途中で下にさがったためアウト、3本目はしゃがみが浅かったためアウトでした。
もしあの時175kgを成功させていたら、今年の目標は180kgになっていたはずです。
なので2本目で175kgが成功したら、180kgにもチャレンジしたいです。
僕にとっては180kgはかなり重たいバーベルで、今年はまだ9回しか挙げていないです。
140kgは今年に入って333回あげましたが、180kgは9回です。
なので、180kgへの挑戦は、ダメで元々という感じです。
ちなみに175kgは今年25回あげています。
絶対に試合で成功させたいです。
首の調子はまあまあです
10月16日の月曜日に地元の整形外科に行って首の様子を見てもらいました。
レントゲンを撮って、首の関節が全部潰れていると言われました。
右の腕に力が入らず、ベンチプレスでも右に力が入っていないことが最初の自覚症状でした。
9月の中旬頃だったと思います。
この時は、体に疲れが残っているのだろうと思いました。
翌週もベンチプレスをしてみると、75kgが重くて仕方ありませんでした。
普段は先に左が潰れるんですが、なぜか右腕に全く力が入りませんでした。
この段階で、これはおかしいと思いました。
19年前、37歳だった時にも同じ経験があったので、わかりました。
37歳の頃は、ベンチプレスで120kgが挙がっていましたが、ある日から急に左腕に力が入らなくなり、みるみるうちにベンチプレスの重量が落ちていきました。
一時は60kgを挙げるのが精一杯という状況まで悪化しました。
何か悪い病気になったのではないかと心配になりましたが、自分の健康を過信していたので、病院には行きませんでした。
そのような状態でもベンチプレスをやり続けたら、次第に首から胸、左腕にかけて強いしびれが出るようになりました。
それでもベンチプレスをやり続けて、一時は110kgが挙がるまでに回復したんですが、その後、我慢できない痛みに襲われるようになり、とうとう観念して病院にいきました。
首の7つの骨のうち、6番目の骨と7番目の骨の間の関節が潰れて神経を圧迫していると言われました。
2週間分の薬をもらい、それ以降およそ3ヶ月ベンチプレスをしなかったら、痛みもしびれもなくなり、力も回復してきました。
最初から病院に行っていればすぐに治ったと思うんですが、無茶をしたため、発症から完治まで9ヶ月もかかってしまいました。
今回は、すぐにベンチプレス、ショルダープレス、ライイング・トライセップ・エクステンションをやめたので、もっと早く治ると思います。
10月23日に再び整形外科を訪れて、さらに2週間分の薬をもらいました。
おかげさまで首も少しは楽になってきました。
予備校で授業をするときは、右腕をあげて黒板に字を書くので、ちょっとしびれます。
でも大分良くなってきました。
妻からは痛みがなくなるまで筋トレをやめたらどうかと言われていますが、お医者様からは筋トレをやめろとは言われていないので、やめるつもりはないです。
お医者様は僕が筋トレをしていることは知っています。
僕の腕を見た途端に、
この腕は何?
ダンベルでもやってるの?
と聞かれたので、筋トレをしていると説明しました。
でもやめろとは言われていません。
娘の不登校について
娘が不登校になって1年が経過しました。
どこかの市長が、フリースクールを文部科学省が認めてしまったことに愕然としていると発言しましたね。
フリースクールで遊んでいる子を見たら、他の子もそっちに流れてしまい、国の根幹を揺るがすというような発言だったと思います。
そして不登校の大半は親に責任があるともおっしゃっていました。
かなりの反発を受けているようですが、僕はあの発言を聞いても気分が悪くなる事はないです。
自分の娘が不登校にならなければ、僕もあの市長と同じような考え方をしていたと思うからです。
知らないからああいう発言をしてしまうんだと思います。
それにしても、まさか自分の子供が不登校になるなんて夢にも思いませんでした。
僕は中学時代、結構ひどい暴力を学校の悪党連中から受けていましたが、不登校にはなりませんでした。
僕が中学生だったのは昭和50年代のことで、あの頃はまだ不登校なんていう言葉はありませんでした。
中学一年生の時、クラスに一回も学校に来ない男子がいましたが、当時はそれを「登校拒否」と呼んでいました。
もし中学時代の僕が登校拒否に陥るとしたら、どれほどの嫌な思いをした時だろうと考えていると、おそらく学年の全員から村八分にされない限り、学校に行かれなくなる事はないだろうと思います。
でも娘はもう1年も学校に行っていません。
1年が経過したので、これまでの娘の出席状況を集計してみました。
それで忘れていた事も随分と思い出しました。
去年の10月16日、娘が中学1年生だった時、娘と妻の間で門限を巡って激しい対立が起こりました。
我が家では門限を5時半にしていましたが、娘の友達はみんな夜の8時ぐらいまで公園で遊んでいて、門限が早すぎる娘のことを可哀想と言っていたそうです。
僕と妻の認識としては、中学生は部活を終えて帰宅したら、テレビを見て、夕飯を食べて、風呂に入って、勉強をして寝るものであって、外出などしないものだと思っていました。
なので、そもそも門限なんていうものがなぜ必要なのかわかりませんでした。
あの当時の娘は中学に通い、部活もやって、塾に週3日通っていました。
塾のない日は夜まで友達と公園で遊んでいたいと考えていたのでしょう。
激しい対立の後、娘は薬箱をあさり、鎮痛薬を7錠も飲んでしまいました。
あとで調べて驚いたんですが、鎮痛薬は1ヶ月に10錠飲んだら飲み過ぎだそうです。
翌日の月曜日から木曜日まで娘は頭痛で学校を休みました。
これが不登校の始まりでした。
でも翌週からまた学校に行きました。
11月1日、学校に行ったものの早退して帰ってきました。
ここから本格的な不登校が始まり、11月に学校に行ったのは、この11月1日だけでした。
でもさすがに本人も休み続けるのはまずいと思ったようで、ある日僕に手紙をよこしました。
そこには、土曜日に試しに部活に行ってみて、大丈夫そうだったら月曜日からまた学校に行くと書いてありました。
そして11月26日の土曜日に部活に行きました。
その日は大丈夫だったようなんですが、日曜日の夕方に娘は僕の部屋を訪ねてきて、明日学校に行くと思うと頭が痛くなってきたと言います。
見ると娘は泣いていました。
学校でもいろいろあって、クラスの口の悪い男子や、生徒を厳しく管理する学校の体制にどうしてもなじめないようです。
12月2日の金曜日と12月5日の月曜日は学校の定期試験を受けるため、学校に行きました。
12月7日の水曜日には、佐倉市がやっている適応指導教室の見学に行きました。
不登校の生徒をサポートする組織で、学校のような授業はなく、生徒は自習するためにそこに行きます。
10時から3時まで適応指導教室は開いていますが、5分でも顔を出せば出席扱いになるという仕組みでした。
適応指導教室は学校と連携していて、学校の定期試験を適応指導教室で受ける事ができます。
他に学校の提出物も適応指導教室が学校に送ってくれます。
なかなか手厚いサポートだと思いました。
でも娘は翌日は適応指導教室ではなく、学校に行きました。
初めて適応指導教室に行ったのは12月14日の水曜日でした。
でもこの日の夜に大変な騒ぎが起こってしまいました。
スマートフォンの利用時間をめぐって、娘と妻の間で再び対立が起き、娘は自殺すると行って暴れ始めたそうです。
僕は仕事で不在でした。
娘は台所から包丁を持ち出して自分の部屋に閉じこもろうとしたので、妻は必死になって取り上げたそうです。
すると娘は台所に戻って、まぜるな危険の塩素系の洗剤を飲もうとしたそうです。
妻は必死にそれも取り上げましたが、次は食器用の洗剤を手に取り、飲んだそうです。
妻はもう体力の限界で、止める事ができなかったと言います。
食器用洗剤なら死ぬこともないだろうと思ったそうですが、洗剤を飲むと娘はすぐにぐったりしておとなしくなったそうです。
娘は病院に搬送されましたが、命に別状はなく、入院の必要もなかったそうです。
でも、うちに戻ってくることを強く拒んで、結局ばあばの家に泊まることになりました。
ばあばの家に4泊して、日曜日に僕が迎えに行きました。
そして月曜日から大人しく適応指導教室に通い、12月23日に終業式に出るために学校に行きました。
年が明けて1月は学校に行った日数が4日、適応指導教室に行った日数が7日、欠席が4日でした。
2月になると欠席が増えます。
学校に行ったのは定期試験を受ける2日だけで、適応指導教室に行ったのは3日、欠席が15日でした。
3月になるともっとひどくなります。
学校に行ったのは終業式の日だけで、適応指導教室に行ったのも1日だけでした。
あとはすべて欠席です。
2年生になるとクラス替えがあり、担任も変わるので、娘は2年生になったら学校に行くと言っていました。
そしてその言葉通りに4月は学校に15回行きました。
欠席は2回だけでした。
5月は体調不良で5回休みますが、その他はすべて学校に行きました。
6月は欠席が増えて、学校に行ったのは7日だけでした。
この頃から妻は娘のメンタルを心配するようになりました。
かなり無理をして学校に行っているのではないかというのです。
妻が言うには、娘が学校に行った日は、必ず帰宅してからド派手なメイクをしてショッピングモールに買い物に行くそうです。
そして帰ってきたら次の日の朝まで爆睡すると言います。
妻はかなり心配して、6月22日の木曜日に、そんなに辛いなら無理をして学校に行かなくても良いと娘に伝えました。
そして、その日が娘が中学校に行った最後の日になりました。
その日からぷっつりと学校に行かなくなり、終業式も学校に行かずに1学期が終わりました。
適応指導教室にももう二度と行かないと言っていました。
夏休みの間は娘は友達と富士急ハイランドに泊まりがけで遊びに行ったり、僕とユニバーサルスタジオに泊まりがけで遊びに行ったり、友達と海水浴に行ったり、友達と夏祭りに行ったり、友達と花火大会を見に行ったりして豪快に遊んでいました。
これだけ元気に遊べるならば、2学期から普通に学校に行かれるだろうと思いましたが、違いました。
夏休みの間は、2学期から学校に行くと言っていましたが、結局行かれませんでした。
9月もずっと欠席のまま月日が過ぎていき、妻はメンタルがズタボロになっていました。
そして信じられないことに、9月の20日頃に娘から、友達とユニバーサルスタジオに行きたいからお金を出してくださいというLINEが届きました。
友達のサリーちゃんと、サリーちゃんのパパ、サリーちゃんのお姉さん、そのお姉さんの友達でユニバーサルスタジオに行くので一緒に行かないかと誘われたそうです。
富士急ハイランドに行ったのと同じメンバーです。
僕も妻も呆れてものが言えませんでした。
6月の下旬からずっと家に引きこもっていて学校にも行っていないのに、ユニバーサルスタジオに行きたいからお金をくれとはどういうことかなのか。
しかも8月に行ったばかりなのに、10月にまた行きたいとは一体何様なのか?
僕と妻は買い物の帰りの車の中でそのLINEを受け取り、絶望的な気持ちになりました。
ふざけるのもいい加減にしろ!と思いました。
当然そんな頼みは却下で、自分の置かれている状況を考えろと言いたかったです。
でも妻といろいろ話しているうちに違う考え方が生まれました。
正論を言うなら、娘にはユニバーサルスタジオを諦めさせ、働かざるもの食うべからずと説教するべきでしょう。
でも、それを娘が聞き入れるはずもなく、また暴れるだけなのは明らかでした。
ならば娘のユニバーサルスタジオに行きたいという気持ちをなんとかプラスに利用できないかと考えて、来年の3月末まで適応指導教室に通うなら、お金を出してあげると提案しました。
9月下旬から3月末までとなると適応指導教室に100回以上いかなければなりません。
どういう返事が返ってくるのかと思ったら、娘はあっさりと適応指導教室に行くことを受け入れました。
そして9月22日から再び適応指導教室に行き始めました。
ユニバーサルスタジオには10月14日、15日の土日で行きました。
その後も娘は適応指導教室に行き続け、今日も出かけていきました。
この先もまだいろいろあると思いますが、不登校の子を相手にする時、正論というのはなんの役にも立ちません。
正論は、それを聞き入れる人間にとってはとても大切なものですが、聞き入れるつもりがない人間にとってはただのたわごとでしかないと思います。
娘は来年、中学三年生になったら離島留学に行くことを希望しています。
岡山県の離島なんですが、9月に娘と僕の2人で現地まで見学に行ってきました。
とても素晴らしいところだと思ったので、是非とも娘をまかせたいです。
娘もとても気に入っていて、地元の中学校に行くより、離島に行きたいと言っています。
すでに出願していますが、選考があるので、行けるかどうかは年末までわかりません。
実は去年も出願したんですが、去年は残念ながら選考で漏れてしまいました。
去年はまだ不登校になったばかりで、今から思えば事態をとても軽く考えていました。
あれから1年経って、あの頃の自分たちがどれほど楽観的な物の考え方をしていたかよくわかります。
なんとかして今度こそ選考を通過して欲しいと思っています。
我が家の家族にとって、今はその離島留学だけが希望の星です。
なんか、娘の不登校の話の方が長くなってしまいましたが、今回はこんなところです。
ありがとうございました。