こんにちは、鹿野一郎です。
今日は2024年5月8日の水曜日です。
5月3日に瀬戸内海の小さな島の運動会に参加してきました。
娘がその島のフリースクールにいるため、父として参加しました。
4月1日から娘はその島のフリースクールで、7人の子供たちと共同生活をしながら、地元の中学校に通っています。
入所の日から島の運動会のその日まで1ヶ月間、デジタルデトックスが実施され、子供たちはスマートフォンを持たない生活をしていたので、我々親は子供たちと直接連絡を取る事ができず、何かと心配していました。
およそ1ヶ月振りに我が娘に会いました。
全てが終わって千葉の自宅に戻ると、妻からは感動の再会はどうだった?と聞かれましたが、僕は島の文化に圧倒されていて、感動の再会とかそういう問題ではなくなっていました。
とても貴重な経験をさせていただきました。
娘も1ヶ月前とは別人のように明るくなりました。
あと11ヶ月もあそこで暮らせば、本当に別人になると思います。
島の運動会
その日、港には普段より多くの人が集まっていました。
明らかに島に帰省する人々です。
みんな久し振りに会うようで、会話が弾んでいます。
娘が在籍しているフリースクールは瀬戸内海の小さな島にありますが、島民はもう20人程度しかいないそうです。
高齢化が進んでいて、島には小学校も中学校もありません。
昔はあったんですが、20年前に閉校になりました。
今はその中学校の建物がフリースクールになっています。
島に中学がないので、子供達は毎日船で本土の中学校に通っています。
フリースクールで子供たちは炊事、洗濯、掃除をやって暮らしています。
島の畑仕事を手伝ったり、道路脇の溝の掃除をしたり、釣りをしたり、飼っているヤギの世話をしたり、いろいろな事をしながら暮らしています。
島の方々とお花見に行ったり、和菓子職人から和菓子の作り方を教わったりもしているようです。
島の運動会は昔からずっとやっているもののようです。
その日にあわせて父母の懇談会が開かれました。
父母にはその日に子供たちのスマートフォンを持ってくるように言われていました。
1ヶ月振りに娘に会えるので、僕は当然ワクワクしていました。
普段はガラガラの連絡船が大混雑で、座れないどころか客室に入る事すら出来ませんでした。
なので、他のお父さん、お母さんとずっとデッキで立っていました。
島に上陸すると、フリースクールの職員と子供たちが港まで出迎えに来てくれていました。
校舎に荷物を置くとすぐに外に並ぶように言われました。
外に出てみるといつの間にか裏の校庭に入場門が設置されていて、もう入場行進が始まろうとしていました。
僕たち父母も一緒に入場行進をします。
予想より本格的な運動会です。
ちゃんと実況もあり、BGMもかかるし、万国旗も飾ってありました。
入場行進が終わると、選手宣誓があり、なんと国旗の掲揚までありました。
運動会に参加した人数は90ぐらいでしょうか?
島民の方々が20人程度、帰省した子供達が30人程度、その子供達(孫達)が40人程度でしょうか?
もしかしたらひ孫もいたかも知れません。
みんなその日にあわせて一斉に帰省して来たんだと思います。
あとフリースクールのスタッフ、子供達です。
開会宣言では70歳ぐらいのおじいさんが壇上にあがり、今年は久し振りに外で運動会が出来て何より嬉しい、しかもこんな晴天に恵まれてありがたいと話していました。
去年は雨のためグラウンドが使えず、体育館でやったそうです。
その前は3年連続、コロナで運動会が開催できませんでした。
なので本当に久し振りに外でできる運動会だったのです。
本当に好天に恵まれてよかったです。
運動会ではラジオ体操、玉入れ、リレー、お菓子広い、宝物釣り、ゲートボールでホールインワンを目指す種目、盆踊りなどが行われました。
僕もゲートボールの種目に参加したんですが、とても面白かったです。
さすがに島のおじいさん、おばあさんは走ったり飛んだりする種目には出ませんが、みんなとても積極的に参加していて素晴らしかったです。
腰の曲がったおばあさんまで競技に参加していました。
運動会は午前中で終わりました。
閉会の挨拶では、開会宣言とは別の80歳ぐらいのおじいさんが出てきて話をしました。
今年は素晴らしい運動会に出来てとても良かった、どうか皆様この一年もご自愛いただき、来年もまた素晴らしい運動会にしましょうという挨拶でした。
僕はこれを聞いてじーんとしてしまいました。
かなり高齢化が進んでいる島なので、まさにその通りだと思いました。
また一年元気で過ごして、来年もこの島で息子、娘、孫たちを迎えて楽しく運動会をしたいというのはまったくその通りです。
素晴らしい運動会だと思いました。
正月やお盆だけでなく、ゴールデンウィークのこの運動会に島民の子供たち、孫たちが一斉に帰省するのは素晴らしい文化だと思いました。
まさに圧倒されてしまいました。
圧倒されて、僕も望郷の念を強く持ちました。
運動会の後は島の婦人会の方々(全員高齢ですが)が作ってくれたカレーライスを食べました。
ものすごく巨大な炊飯器3つでご飯を炊き、ものすごく巨大な釜でカレーを作っていました。
海を見ながらカレーをいただきましたが、とてもおいしかったです。
僕が育った小山台の社宅
僕は昭和42年に東京で生まれました。
僕が子供だった頃住んでいたのは、父が勤めていた会社の社宅でした。
小学校のグラウンドの半分ぐらいの面積の土地に、平家の古い家が7軒建っていました。
敷地内の地面はすべて土で、コンクリートとかアスファルトの地面はありませんでした。
敷地はすべて金網で囲まれていて、外部の人間は入れないようになっていました。
別に鍵がかかっていた訳ではないので、入れない訳ではないですが、普通は入って来ないです。
金網には2箇所扉があり、それが出入り口でした。
幼稚園に入るまではその金網の外に出ないように親から言われていました。
外に出なければ車にひかれる可能性がないからでしょう。
幼稚園は金網の扉を出て通りを渡ると、反対側にありました。
小学校までは10分ぐらい歩きました。
品川区の小山台小学校というところです。
あの社宅の建物はみんな見事にオンボロでした。
大正時代に建てられた建物だそうです。
僕が住んでいた家は、雨が降ると必ず雨漏りがしました。
ガラス戸の枠はアルミサッシではなくて木だったので、冬になると隙間風が容赦なく入り、家の中と外の温度差がないぐらい寒かったです。
子供の頃はよく縁の下に潜って遊んでいました。
子供たちの年齢もみんな近かったので、社宅全体で一つの家族みたいな感じでした。
小学生の頃、学校から帰ると必ずうちに何人かのおばさんがいて、みんなでお茶を飲んで話していました。
毎年秋になると社宅中で落ち葉拾いをやりました。
お母さんたちが竹のホーキで落ち葉を集め、お父さんたちがそれをたき火で燃やします。
石焼き芋も作っていました。
作業が全て終わると、1つの家のふすまを全部外して、そこに全員集合してお寿司を食べました。
お父さんたちはビールを飲み、子供たちはオレンジジュースを飲ませてもらいました。
あの行事は一年で一番楽しいものでした。
僕はその社宅に昭和53年までいました。
小学校5年生の冬に千葉に引っ越して来ました。
引っ越したのは、会社が社宅を手放す事になったからです。
なのでみんな社宅を引き払って方々へ散って行きました。
島の運動会に参加して、その社宅のことを強く思い出しました。
もしあの社宅が今でも健在だったなら。
もしあの当時の親たちが誰も引っ越さずに全員今でもあそこにいたらと考えました。
今はもうその社宅は取り壊されて、跡地にマンションが3つ建っています。
懐かしい故郷はもう記憶の中にしかないです。
もしあの社宅が今でもあったなら
あの当時、その社宅には7つの家がありました。
昭和49年に小学校で航空写真を撮りました。
校庭に人文字で小山台と書いて、それを飛行機から撮影した写真です。
白黒の写真ですが、その写真に当時の社宅が写っています。
家は7軒です。
思い出してみようと思ったんですが、全員は思い出せません。
苗字が思い出せない人もいれば、家族構成が思い出せない人もいます。
かなり曖昧な記憶ですが、あの当時親は14人で、子供も14人だったと思います。
昭和53年にあの社宅を出て行って以来、一度も会っていない人もたくさんいます。
確か2回か3回ぐらい遊びに行って、社宅の中で野球をした覚えがあります。
という事はうちが出て行ってすぐに社宅がなくなったのではなく、まだ数年は残っていたのでしょう。
あの時社宅にいた人で、現在の近況を知っている人は3人です。
それは母と特に仲の良かったおばさんの娘3人です。
でももう40年以上会っていません。
さすがにあの時のメンバーで今集まっても、お互いに長い年月会っていないので、何の感慨もないと思いますが、もしずっとあそこが存在し続けて、親達が今でもあそこに住んでいるならば、正月は一斉に全員が帰省する事になるでしょう。
そうだとすればものすごく賑やかな正月になると思います。
家は狭かったので、もし僕と妻と娘と、弟とその奥さんと息子が帰省したら、寝る場所がないでしょう。
おそらく男部屋、女部屋という分け方しか出来ないと思います。
家の間取りは3DKで、おそらく家の広さは50平米もなかったと思います。
長い廊下の突き当たりにトイレがあり、廊下はすべて縁側になっていました。
昔の建物です。
土地は広く、おそらく庭だけで60坪以上あったと思います。
庭にはびわの木があって、びわは毎年食べ放題でした。
庭には砂場もあったし、滑り台もありました。
社宅の敷地内には大きな広場が2つあって、小さい頃はそこで遊んでいました。
夏みかんの木に登って、それを食べたりしました。
桑の木があって、カイコが自生していたので、どの家でも毎年カイコを飼っていました。
こうして書いていると色々思い出しますね。
ガマガエルを捕まえて家に持って帰ると母が悲鳴をあげて、捨てて来なさいと言いました。
子猫を拾って、うちで飼いたいと言った時は烈火の如く怒られて、捨てて来なさいと言われました。
我が家ではニワトリを飼っていましたが、猫に襲われて死んでしまいました。
なぜうちにニワトリがいたのかと言うと、母と仲の良かったおばさんの娘さんが、夏祭りの縁日でひよこを買って来たからです。
それが育ってニワトリになってしまいそうだから引き取って欲しいと言われたのです。
そのおばさんは僕たちより早く社宅を出ていて、都内のマンションで暮らしていました。
マンションではひよこならまだしもニワトリなんて飼えないので、うちで引き取る事になりました。
父が小屋を作ってくれて、そこでニワトリを飼っていました。
ニワトリを飼っていたのは数ヶ月間で、ある晩に猫に襲われて致命傷を負い、命を落としてしまいました。
あの時は本当に悲しかったです。
まだまだ思い出します。
あの社宅には水洗トイレがなくて、家のトイレは落とし便所でした。
なのでトイレは猛烈に臭かったです。
定期的にバキュームカーが汲み取りにくるんですが、バキュームカーも猛烈に臭かったです。
家にはシャワーがなかったんですが、父が自作してくれました。
あの当時はまだ隣の家に電話がありませんでした。
だからうちに隣の人宛に電話がかかって来て、母が隣のおばあさんを呼びに行ったりしていました。
もしあの社宅が今でも健在で、正月、ゴールデンウィーク、お盆に皆が一斉に帰省するならば、本当に全体で一つの家族のような感じでしょう。
まさにふるさとですね。
もしそうなら、今とは違う人生を送っていたような気がします。
あの島の人たちはそういうふるさとを持っている訳です。
この一年、どうかご自愛いただき、来年もまた楽しい運動会をしましょう。
感動してしまいます。
僕ももう56歳で、初老の男なので、若い頃よりもふるさとという物に強い懐かしさを覚えます。
僕にとってはあの社宅がふるさとでしたが、もう存在しないです。
娘はどうなのでしょうか?
娘は島で暮らすのは1年間だけですが、共同生活をしている7人とはずっと友達でいるような気がします。
あの島は娘にとってふるさとのような場所になるのでしょうか?
だとしたらとても羨ましいです。
元気なおじいさん達
港で船を待っている時、元気のいいおじいさんの話が聞こえて来ました。
70歳ぐらいだと思います。
待合室で懐かしい面々に会って、大声で話をしている様子でした。
大阪から新幹線で来たそうですが、とにかく大変だったと言っていました。
僕はその前日に東京から福山までのぞみに乗って来たので、新幹線が大混雑していたというのは意外でした。
のぞみはゴールデンウィーク期間中は全席指定席になり、混雑はありませんでした。
乗車率は8割程度という話でした。
でも、おじいさんはとても大変だったと言います。
そのおじいさんの話振りがとても面白かったので、聞いていました。
まずそのおじいさんは新大阪の駅に行って、そこで自由席の紙の切符を買おうとしたそうです。
そうしたら券売機に長蛇の列ができていて大変だったと話していました。
ようやく自分の番が来たら、その券売機は現金が使えないものだったそうで、駅員に説明を受けて、現金が使える券売機に並び直したそうです。
確かにそれは大変です。
切符を買って駅の中に入るとホームに人がたくさんいたといいます。
そして電車の乗ったら座る席が無かったと言っていました。
まあ、ひかり号だったらそうなりますね。
ひかり号には自由席がありましたから。
でもゴールデンウィークでは座れませんね。
そのおじいさんは終始満面の笑みで話をしていました。
もう1人、超人的な体力を持ったおじいさんがいました。
運動会で恋人岬ゲームという種目がありました。
何かと思ったら、男女で肩を組んで、体と体の間にバレーボールを挟み、そのボールを落とさないようにグラウンドを一周走るという競技でした。
青年団の団長(50歳)は、セクハラゲームがはじまるぞ!と言っていました。
うちの娘や島の女の子達は、あんなきもい競技は絶対やらないと言って逃げていました。
その競技に超人的な体力を持ったおじいさんが出ました。
そのおじいさんと肩を組んでボールを挟む相手は、フリースクールの24歳の女性スタッッフでした。
あのおじいさん、いいなあと思って見ていると、なんとそのおじいさんはその女性をお姫様抱っこして、そのまま走り出したんです。
女性スタッフは左手にボールを持ち、右手は大きく突き上げて、いえーーーい!と声を上げていました。
会場からは歓声があがり、大いに盛り上がりました。
そのおじいさんも70歳は過ぎているように見えました。
どこまで走るんだろうかと思ったら、なんとお姫様抱っこをしたままグラウンドを1周してしまいました。
信じられない体力です。
グラウンドと言ってもとても狭くて、1周150mぐらいしかないトラックですが、それでも70歳超えのおじいさんが女性をお姫様抱っこして一周走り切るというのは驚異的です。
僕も70歳になったとこにあのぐらいの体力があったらいいなあと思いました。
体重爆発!!
島から帰った翌日、体重計に乗ると77.4kgになっていました。
島に行く前は75.5kgでした。
一気に2kgも増えてしまいました。
新幹線で福山まで行った日は、昼と夜は自作の弁当だったので、食事に問題はなかったんですが、島の運動会では猛烈に食べてしまいました。
まず、午前10時頃にフリースクールから間食としてヤマザキのコッペパンとブリッグパックの野菜ジュースが配られました。
減量中だから食べるのはよそうと普段なら考えますが、あの雰囲気ではそうは行きませんでした。
手に持ったタンバリンをバチで叩きながら、がんばれーと応援し、目の前で次々と競技が行われます。
もう食べるしかありませんでした。
お菓子拾いという競技では、校舎の二階から青年団の人々がお菓子をばら撒き、グラウンドにいる子供達がそれを掴んでゲットします。
娘はどっさりお菓子をもらって来ましたが、結局それはほとんどすべて僕が食べました。
運動会の後、懇談会があったんですが、そのときに子供達のお菓子は、ほとんどすべて親達が食べてしまいました。
昼ごはんのカレーライスだけだとお腹が空いたので、みんな次々にお菓子の袋を開けて食べていました。
あの雰囲気で、「僕は減量中だから」と言う事はできませんでした。
というより自ら率先してばりばりお菓子を食べていましたが。
帰りの新幹線では駅で買ったのり弁を食べましたが、それも僕が作る弁当に比べると量が倍ぐらいありました。
かくして僕は一気にリバウンドしてしまいました。
試合は次の日曜日です。
果たして74kgまで絞れるのか、厳しくなって来ました。
でもあの運動会はとても素晴らしかったので、なんの後悔もないです。
人生とは?幸福とは?
という問いの答が変わるぐらい大きな影響を受けました。
本当に素晴らしい経験をさせていただきました。
ありがとうございました。