岩名運動公園、佐倉朝日健康マラソンの思い出1 (長嶋茂雄記念岩名球場・小出義雄記念陸上競技場)

フルマラソン

こんにちは、鹿野一郎です。
今日は2021年12月16日の木曜日です。
もう年末ですね。
先日、愛犬の散歩で妻とともに千葉県佐倉市の岩名運動公園に行ってきました。
僕は昔この運動公園に良く来ていました。
岩名陸上競技場は佐倉朝日健康マラソンの本拠地です。
僕は1997年から99年まで3回このマラソンに出場して、97年は36km地点でリタイア、98年は29km地点でリタイアし、99年にようやく完走することが出来ました。
その後、すっかりマラソンはやめてしまったので、岩名運動公園にも行かなくなりました。

妻は岩名運動公園について、

初めて来たけど、きれいなところだね。

と言っていました。

最後に岩名運動公園に行ったのはいつだったのかと思って、帰宅後に日記を調べてみたら、2009年の春に妻と2人で花見に行っていました。
実は初めてではなかったんです。
でも、桜の木が少なかったので、すぐに佐倉城址公園に移動したようです。
だから、妻にとっては全く記憶に残っていなかったんでしょう。

公園内の道路です。

12年振りの岩名運動公園

22年振りかと思った岩名運動公園は、実は2009年の春以来12年振りでした。
でも、記憶がかなり曖昧になっていたようで、岩名運動公園はまるで別の場所のようでした。
岩名運動公園は京成佐倉駅から北へおよそ2km離れたところにあります。
おそらく駅からバスも出ていると思いますが、マラソンの時はほぼ全員、駅から運動公園までの長い道のりを歩きます。
42.195km走る気で来ている人にとっては、2kmというのは全く問題ない距離なんですね。

森に囲まれた運動公園で、土地にはかなり起伏があります。
それは覚えていたんですが、行ってみてびっくりしたのは、そこに野球場があったことです。

鹿野一郎
鹿野一郎

こんな野球場は昔はなかったはずだぞ!?

と思いました。
駐車場が得点を表示する構造物の裏側にあったんですが、その構造物の背面にははっきりと「長嶋茂雄記念岩名球場」と書いてありました。
僕はこの野球場のことは知りませんでした。
ということは、この野球場は2000年以降に作られたのでしょうか?
これも気になったので帰宅した後調べてみました。
野球場が作られた年を調べたんではなくて、僕の日記を「岩名」というキーワードで検索して調べました。
ヒットしたのは24件で、それを読み返してみたら、僕がマラソンをやっていた当時からそこに野球場があったことがはっきりと書いてありました。
いくら長い年月が経過しているとはいえ、野球場の存在が丸ごと記憶から消えているのは恐ろしい事だと思いました。
陸上競技場は建物も、向かいのトイレもはっきりと覚えていたんですが、すぐ脇にそびえている巨大な野球場の存在が全く記憶にありませんでした。
それどころか、そこは更地で草が生えていたような気すらしていました。

この岩名運動公園は、昔テレビに出たことがあります。
とんねるずの番組で、女子マラソンのキャサリン・ヌデレバ(当時の世界記録保持者、高橋尚子さんの世界記録を塗り替えました)、積水化学の陸上部の小出義雄監督も出演していました。
小出監督は、バルセロナオリンピック(1992年)で銀メダル、アトランタオリンピック(1996年)で銅メダルを取った有森裕子選手と、シドニーオリンピック(2000年)で金メダルを取った高橋尚子選手を育てた監督です。

ヌデレバと芸能人軍団で10km走の勝負をするという番組でした。
ヌデレバは1人で陸上競技場を25周しますが、芸能人は5、6人いて、いつでも自由に交代して良いというルールでした。
結果は芸能人チームの勝ちでした。
最後は100mずつ、のべ10人ぐらいのダッシュを仕掛けて、勝ちました。
でも、僕の目には最初から最後までヌデレバが本気で走っているようには見えませんでした。
世界記録保持者が本気を出したら、いくらなんでも芸能人に勝ち目はないでしょう。
番組を盛り上げるために、力を抜いて接戦になるようにしたのではないかと思います。

この競技場では、物凄いおじいさんとおばあさんに会ったこともありました。
おじいさんは70歳ぐらいで、100mを11秒台で走っていました。
おばあさんは80近い高齢でしたが、1500mを7分ぐらいで走っていたと思います。
この方達には希望を与えていただきました。

僕はこの競技場が本拠地となる佐倉朝日健康マラソンに3回出場しました。1997年から1999年まででした。
この佐倉マラソンの開会式に小出義雄監督と高橋尚子選手がゲストとして呼ばれたことがあり、僕は感激してしまいました。
この当時はまだ高橋尚子選手はそれほど有名な選手ではありませんでしたが、2000年のシドニーオリンピックで女子マラソン史上初の金メダルを取り、一躍時の人となりました。
僕が高橋尚子選手の走りを初めてみたのは、1998年にタイのバンコクで開催されたアジア大会でした。
高橋選手にとっては3回目のマラソンでしたが、走る前から金メダルが期待されていました。
それは2回目のマラソンである、名古屋国際女子マラソンで2時間25分48秒の日本記録を作ったからです。
しかも、有森裕子選手を育てた小出監督の指導を受けているということで、期待されていました。

当日のバンコクはスタート時の気温が26度、ゴールのときは32度で、湿度は90%という暑さでした。
その中で高橋選手は驚異的な走りを見せ、自身が持つ日本記録を4分も短縮し、2時間21分47秒で優勝しました。
このレースは本当に凄かったです。
この走りで高橋選手には一気にシドニーオリンピックの金メダルの期待がかかりました。
そして、期待通りに優勝し、日本に女子マラソン初の金メダルをもたらしました。

岩名陸上競技場の周りには有森裕子選手、高橋尚子選手がよく走っていたコースが、「裕子コース」、「尚子コース」と名付けられて残っています。
駅前には「かけっこ」という走る女性の銅像もあります。
僕にはモデルが高橋尚子選手のように思えます。

さて、思い出話はこの辺にして、岩名運動公園の事を書きます。
昔はなかったサッカー場が入り口の近くに出来ていました。
正確には運動公園の外ですが、その球技場は昔はありませんでした。

そして、公園内にはクロスカントリーのコースが設けられていました。
起伏の激しい高低差のある土地なので、クロスカントリーのコースを作るにはぴったりです。
コースには、ハスクチップのような木材がまかれていて、どこがコースなのかすぐにわかるようになっています。
ハスクチップというのはカブトムシの成虫を飼う時に飼育ケースに入れる、木のクズのようなものです。
それがまかれているところがコースなので、とてもわかりやすいです。
高低差があるだけでなく、かなり蛇行しているので、本当にクロスカントリーだと思います。
1周でどのくらいの距離があるのかわかりませんが、あそこを走っていたら足腰はかなり鍛えられると思います。
妻は全く運動しない人ですが、そのコースを見て、歩きたいと言っていました。

クロスカントリーのコースの一部です。

坂道を降りていくともう一つの駐車場と、テニスコートがあります。
このテニスコートのことは覚えていました。

佐倉運動公園のテニスコートです。


となりに芝生の広場があるんですが、その広場の中に相撲の土俵がありました。
あそこで相撲をするんでしょうか。
全くの屋外で、土俵と屋根があるだけです。
壁はありません。
更衣室のようなものもなにもありません。
あるのは土俵と屋根だけです。
夏は良いですが、冬は寒すぎてあそこで相撲を取るのは不可能だと思います。
成田の中台運動公園にも相撲場があると思いますが、あそこはちゃんと建物になっています。
屋外の相撲場はちょっとかわいそうだと思います。

岩名運動公園には体育館がないです。
だから屋内の競技はあそこではできないです。
プールもありますが、このプールも僕の記憶からは完全に消えていました。

長嶋茂雄記念岩名球場と小出義雄記念陸上競技場

記憶にない野球場には、長嶋茂雄記念岩名球場と書いてありました。
妻から、長島さんと佐倉に何の関係があるの?
と聞かれたので、

鹿野一郎
鹿野一郎

多分、佐倉高校出身なんじゃないの?

と答えましたが、調べてみたらやっぱりそうでした。
1951年(昭和26年)に入学したそうです。

僕は全く知らなかったんですが、長嶋茂雄終身名誉監督は文化勲章を受賞されたそうで、12月1日から明日の12月17日まで、写真展が開かれているそうです。場所は長嶋茂雄記念岩名球場です。
僕たちはただ愛犬の散歩で行ったんですが、この写真展を目当てに来ている人も結構いました。

野球場の周りをぐるりと歩いて、公園内も一通り歩いて、最後は陸上競技場の前に戻りました。
すると、そこには小出義雄記念陸上競技場と書いてありました。
小出監督は積水化学の女子陸上部の監督で、佐倉市で生まれ育ち、積水化学の合宿所も佐倉にありました。
僕は一度、小出監督の講演会を聞きに行ったことがあります。
うちの近くのコミュニティーセンターで開かれ、入場料が無料ということだったので、大喜びで行きました。
日付を調べてみたら1999年の5月15日でした。
小出監督の話はとても面白く、ためになるものが多かったです。
中でも一番感動したのは、アトランタオリンピックの時の有森裕子選手の話です。
有森選手はかなりの苦しみの末にオリンピックで2大会連続のメダル獲得を果たしました。
そして有名な言葉を残しました。

初めて自分で自分を褒めたいと思いました。

小出監督もこの言葉をステージの上で述べられました。
そして、「この言葉、有名になりましたねえ。」とおっしゃいました。
僕はこの言葉を聞いた時、ああ、この人は本当にあの場所にいて、あの力走を支えた人なんだなと思い、それまでゲラゲラ笑っていた気分が吹っ飛びました。
そして、身が引き締まる思いがしました。
とても貴重な機会でした。

小出監督が書かれた本を持っていますが、小出監督には書くに困らないぐらいエピソードがたくさんあります。
ここで一つだけ紹介させてください。
小出監督が順天堂大学の体育学科を卒業して、佐倉高校の教員になった時の話です。
長嶋終身名誉監督と小出監督には、佐倉高校でつながりがあるんですね。
時期はずれていたと思いますが。

その当時、佐倉高校の陸上部の部員たちは、体育学科を出た先生が来てくださると言うことで、とても期待していたそうです。
当時は体育学科というのは非常に珍しかったそうです。
着任するとすぐに女子砲丸投げの選手が相談に来たそうです。
なかなか成績が伸びないのでどうしたら良いかという相談だったそうです。
小出監督はその女子生徒に、どんな練習をしているのか尋ねました。
すると、毎日20本投げているという答が返ってきたそうです。
その当時の砲丸投げの常識では1日20本が限界で、それ以上投げると肩を壊すと言われていたそうです。
小出監督はそんなことは知らずに、

じゃあ、明日から60本投げなさい。

と答えたそうです。
女子生徒は驚いて、「えっ!わかりました。」と言い、それから毎日60本投げたそうです。
やがて、「監督、肩が痛くてもう投げられません。」と訴えてきました。
それに対して小出監督は、

あ、そう。じゃあ、明日から左で60本投げなさい。

と答えたそうです。
女子生徒は、「えっ!!わかりました。」と言って、次の日から左で投げ続けたそうです。
そしてその後、その女子生徒は全国大会で優勝したそうです。
これは実に多くの教訓を含んだエピソードだと思います。
僕は予備校講師をしていますが、たまにこの話を生徒にします。

小出監督は1992年のバルセロナ、1996年のアトランタ、2000年のシドニーと、オリンピックで3大会連続でメダリストを輩出しました。
まさに日本を代表する監督だったと思います。

中央に見えるのは高橋尚子選手がシドニーオリンピックで着たユニフォームでしょうか?

1997年の佐倉朝日健康マラソン

僕は1997年の3月2日、初めてフルマラソンに出場しました。
僕は1986年の5月から現在まで日記をつけているんですが、よりによってこの日の日記は消失してしまいました。
バックアップの失敗で、3月2日から3月7日の日記がなくなってしまっていました。
なので、僕にとって初めてのマラソンの詳細は不明です。
ただ、36km地点でリタイアしたのははっきりと覚えています。
36kmでリタイアしたと友達や弟に話すと、みんな、

あと6kmなんだから頑張れば走れたじゃん!

と言いますが、絶対に無理でした。
もう動けないほどのダメージを受けていたんです。
あの日、僕は1000円ぐらいで買った安物の靴を履いてフルマラソンに出ました。
あの当時はちゃんとしたジョギングシューズを持っていなかったんです。
靴底がとても薄いので、長時間走っているとだんだん足の裏の骨にダメージが蓄積されてくるんです。
軽い打撲が長時間続き、だんだん痛みが出るようになってきました。
36km地点に達した時は、もうびっこを引いているようなもんでした。
あと6kmどころか1kmでも無理だったと思います。
動けなくなって困っていると、後ろから救護車が来たので、それに乗せてもらいました。
それでリタイアです。
救護車に乗ってコースを走っていくと、なんと41km地点でリタイアしている人がいました。
その人は別の救護車に運ばれていました。
足が棒になるというのはあの状態のことを言うんだろうなと思いました。
あの人は、もう自力では100mも動けなかったと思います。
2人の係員に肩を貸してもらって、ようやくケンケンで歩けるような状態でした。

佐倉朝日健康マラソンは、時間制限が5時間で、市民マラソンとしては厳しいマラソンです。
給水所も少ないです。
記憶では5箇所ぐらいしかなかったと思います。
僕は佐倉朝日健康マラソンに3回出場したほか、東京荒川マラソンに2回出場しましたが、東京荒川マラソンは荒川の河川敷を走るマラソンで、高低差がなくてとても楽なマラソンでした。
しかも給水所が13箇所もあって、時間制限も7時間とゆるゆるでした。
それから比べると、佐倉マラソンはとても厳しいマラソンです。
しかも1998年、1999年は悪天候にたたられて、厳しさに輪をかけていました。

このマラソンで足を痛めた僕は、すぐにちゃんとしたジョギングシューズを買いました。
そして、それを履いて走ると、クッションが効いているのがよくわかりました。
最初からちゃんとしたシューズで出ていれば、もしかしたらリタイアしなくて済んだかもしれないなと思いました。

今回はこの辺にしておきます。
この話はあと2回続く予定です。

ありがとうございました。

岩名運動公園、佐倉朝日健康マラソンの思い出2へつづく

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