夏のオリンピックの思い出(前編)

オリンピック

こんにちは、鹿野一郎です。
東京オリンピックが開催されていて、連日日本人が金メダルを取っていますね。
僕は仕事でほとんどオリンピックの中継を見ていませんが、職場ではオリンピックの話題で盛り上がっている人が多くいます。
卓球、水泳、柔道、ソフトボールなど、凄い盛り上がりを見せているようです。

今回はオリンピックの思い出を語りたいと思います。
僕は昭和42年生まれの53歳です。
なので世代的に、オリンピックと言ったらなんと言っても1984年のロサンゼルスオリンピックです。
あの時僕は高校二年生でした。
日本にとっては8年振りのオリンピックで、僕にとっては世の中のことが少しわかるようになってから初めてのオリンピックでした。
今でもあのロサンゼルスオリンピックの、オリンピックファンファーレは耳に蘇ります。
ジョン・ウィリアムスが作曲したあの曲です。
若い人はわからないと思いますが、ジョン・ウィリアムスと言ったら、スーパーマン、スターウォーズ、インディー・ジョーンズの音楽を手掛けた偉大な人です。
オリンピックファンファーレもとてお良い曲だと思います。

1 ロサンゼルス・オリンピック

ロス五輪の開会式では、宇宙服を着て、背中に簡易エンジンを背負った人がスタジアムの中を飛行するという、当時としては浮世離れした演出がありました。素晴らしい開会式だったと思います。

ロス五輪では日本人の活躍もありました。
柔道の山下泰裕選手(現在のJOCの偉い人)が脚の肉離れにもかかわらず、金メダルを取りました。
体操では具志堅浩二選手が個人総合で金メダルを取り、森末慎二選手が鉄棒で30点満点を出して金メダルを取りました。
鉄棒の森末選手の最終演技のプレッシャーは相当なものだったと思います。
記憶が確かなら、その時点で暫定トップだった中国のリネイという選手は29.7点という高得点だったので、2種目で20点だった森末選手は、最終演技で9.8以上の点数を出さなければ金メダルが取れない状況でした。
その中で10点満点を出して優勝を決めました。凄い演技だったと思います。
この大会で、あまりにも10点満点がたくさん出たので、それを境に採点基準がもっと厳しく変更されたと思います。

またマラソンでは宗兄弟の弟の、宗孟司選手が4位に入賞しました。金メダルが期待されていた瀬古利彦選手は残念な結果に終わってしまいました。
また、女子マラソンの増田明美選手(現在の陸上競技連盟の偉い人)ももしかしたらメダルが取れるかも知れないと期待されていましたが、途中棄権という残念な結果に終わってしまいました。

あのロス五輪でなんと言っても鮮明に記憶に残っているのは、アメリカのカール・ルイス選手です。
100m、200m、400mリレー、走り幅跳びで金メダルを取り、一躍世界の有名人になりました。

カール・ルイス選手


そしてもう一人、アメリカの女子体操のメアリー・ルー・レットン選手もあの大会で一躍有名になりましたね。
女子体操の個人総合で優勝し、その愛嬌と共に爆発的な人気を呼びました。
カール・ルイスはその後も長い間オリンピックで活躍しましたが、メアリー・ルー・レットンはロス五輪が終わったら引退してしまいました。
僕にとって、事実上初めてのオリンピックだったため、何もかもが衝撃的で、とても強く印象に残っています。
オリンピックの中継はほとんど全て見たと思います。

2 幻に消えたモスクワオリンピック

1980年のモスクワオリンピックには、日本は出場しませんでした。
政治的な理由で、アメリカなどの国々とともにソビエト連邦で開催されるオリンピックをボイコットしたからです。
あの当時僕は中学1年生でした。
オリンピックの前、テレビのCMでは、「頑張れ日本!モスクワは近い!」というキャッチフレーズが連日流れていました。
マラソンの瀬古利彦選手、柔道の山下泰裕選手などは金メダル候補として期待されていました。
が、日本はオリンピックをボイコットすることになり、出場は夢と消えました。

ある日、僕は友達に尋ねました。
「いつになったらモスクワオリンピック、始まるの?」
友達は、もう終わったと答えました。
それを聞いて僕は驚きました。
え?全然見てないし、テレビでやってなかったじゃないか!
そう思いましたが、友達が言うには、日本はオリンピックをボイコットしたから、日本では放送しなかったということでした。
当時の僕は日本がオリンピックをボイコットしたというのは知っていましたが、ボイコットという言葉の意味を知らなかったので、日本がオリンピックへの参加を辞退した、拒否したという事を知りませんでした。
だから日本の選手は全員出られなくなったというのです。
それは気の毒だけど、でもなんでテレビで放送しなかったのか?
純粋にそう思いましたが、日本人が出ないオリンピックを日本で放送しても意味がないと友達は言いました。
それは確かにそうですが、政治的な理由でボイコットしているので、事態はさらに深刻でした。
日本人が出ないスポーツの試合を日本で中継するというのは当時の日本では実は当たり前でした。
サッカーのワールドカップやテニスのウィンブルドンは、当時は日本人には無関係の遠い国の試合でしたが、それでもテレビで放送していました。
放送がなかったのは、日本人が出ないからではなくて、政治的な理由でボイコットしたからですね。
そういう訳で、モスクワオリンピックは西側諸国にとっては縁のないオリンピックになってしまいました。
どのような開会式が行われ、どのような記録が出たのか、何もわかりません。
西側諸国がモスクワ五輪をボイコットしたため、4年後のロス五輪はソビエト連邦がボイコットするという事態になってしまいました。
まさに負の連鎖です。
オリンピックのボイコットというのは、あまり良いことではないですね。
もう、今後、どこかの国がそういう理由でオリンピックをボイコットするということは起こって欲しくないです。

この1980年のモスクワ五輪のさらに4年前のオリンピックはカナダのモントリオールでした。
当時の僕は9歳でした。
テレビで体操の映像を見て、不思議に思っていました。
見たのは吊り輪、あんばなどでしたが、普段全く見たことがない競技なので、あれはなんだろうと思いました。
親に聞くとオリンピックだよと教えてくれたので、僕は吊り輪とあんばの事をオリンピックとして記憶しました。
オリンピックが終わってしばらくしてから、オリンピックの事を思い出す時がありました。
また見たいなと思いましたが、親によるとオリンピックは4年に一度しかやらないから、4年間待たなければいけないという事でした。
その当時、モントリオールオリンピックという名称は知っていましたが、モントリオールが地名だとは知りませんでした。
9歳の僕にとってはまだまだ世の中はわからない事だらけだったんです。

3 ソウルオリンピック

1988年、韓国のソウルでオリンピックが開かれました。
僕は大学生でした。
オリンピックが開かれる前、韓国の財界の人が、オリンピックの開催を機に、韓国という国が世界中に広く知られる事を期待すると述べているのを何かの記事で読みました。当時の僕は、韓国ぐらい誰でも知っているじゃないかと思いましたが、それは日本人だからですね。
日本人で韓国を知らない大学生はいないと思いますが、では、バルト三国を地図で北から順に三つ言えと言われたら、日本の大学生はどのくらい正解できるでしょうか。隣国のことは知っていても遠方の小国のことはわからないですよね。
でももしリトアニアやエストニア、ラトビアでオリンピックが開かれたら、一気に日本国内での知名度は上昇するでしょう。
韓国の財界人が言っていたのはそういう事だったんだと思います。
大学生の時の僕にはわかりませんでした。

鈴木大地選手です。

ソウルオリンピックでの記憶というのはあまりありません。
ソウルオリンピックで金メダルととった日本人は何人かいると思いますが、覚えいません。
おそらく柔道で何個か取っていると思いますが、他はどうだったのでしょうか。
あの当時はまだ日本の女子レスリングは今ほど強くなかったので、メダルは取っていないと思います。
それと日本の水泳もあの当時は今ほど強くなかったので、今ほどの活躍はなかったはずです。
前スポーツ庁長官の鈴木大地選手がバサロキックを武器として、水泳で金メダルを取ったのは、このソウル五輪だったでしょうか?
それとももう少し後だったのでしょうか。

4 バルセロナオリンピック

1992年のオリンピックはフランスのバルセロナでした。
このバルセロナと次のアトランタは、記憶がかなり曖昧で何があったのかよく覚えていません。
でも一つだけ覚えているのは、柔道で古賀稔彦選手と吉田秀彦選手が揃って金メダルを取ったのは、このバルセロナだったという事です。
バルセロナで試合の前に二人で練習をしていたら、古賀選手が脚を怪我してしまいました。
かなりの重症で、試合の出場が危ぶまれる状況でした。
その中で、先に出場した吉田選手は優勝し、金メダルを取りました。
でも自分の責任で怪我をさせた(と思っている)古賀選手が金メダルを取れなかったら、自分の金メダルは半分だ、という思いで古賀選手の試合を見守ったそうです。足を引きずりながら試合に出ていましたが、あまりにも痛々しい状況でした。

古賀俊彦選手です。


同じ階級にはドイツのドットという選手がいて、この人がかなり強かったです。
なのでドット選手と古賀選手が対決することになった時は、負けてしまうのではないかとハラハラしていましたが、古賀選手は怪我をしている脚で思い切り踏ん張って得意の一本背負いでドット選手を投げ飛ばしました。これには驚嘆しました。
これだけのハンデがあっても、あの選手に勝つのか!という驚きがありました。
まさに平成の三四郎の呼び名の通りでした。
でもその一本背負いでますます脚が悪くなり、試合を止めた方が良いのではないかという雰囲気になってきましたが、日本のコーチ陣は本人が諦めない限り試合に出させるという結論に至りました。
決勝戦は僅差の判定勝負になりましたが、ギリギリにところで古賀選手が勝ちました。
あの時の古賀選手の表情は、おそらく一生忘れないと思います。
あれこそ、試練を乗り越えて悲願を達成した人間の顔だと思います。
バルセロナオリンピックで覚えていることはこれぐらいです。

バルセロナ・オリンピックについて調べてみたら以下のことがわかりました。


男子陸上400mで高野進選手が400mで決勝に進出し、8位に入賞しました。
オリンピックでの日本人の陸上競技での決勝進出は、60年振りの快挙だったそうです。
この高野選手の活躍は忘れていましたが、よく覚えています。
また、沼津出身の、若干14歳の岩崎恭子選手が200m平泳ぎで当時のオリンピック記録を塗りかえて金メダルを獲得したそうです。
忘れていましたが、これもよく覚えています。
この時インタビューで、「今まで生きてきた中で一番幸せです。」と答えていた姿はとても印象的でした。
もう一つ、女子柔道で、当時高校生だった田村亮子選手(現在は参議院議員)が初めてオリンピックに出場して銀メダルを獲得しました。
あの当時の田村亮子選手は漫画「YAWARA!」の主人公と重ね合わせられて、ヤワラちゃんの愛称で親しまれ、とても人気がありました。
よく覚えています。忘れていましたが(汗)。
最後に女子マラソンで有森裕子選手が銀メダルをとりましたね。なんでこんな事まで忘れてしまうんでしょうか。
あのレースは見ていました。最後の死闘は制して欲しかったですが、有森選手はおそらく限界を超える走りをしていたんだと思います。
相手が上だったとしか言いようがないと思います。

5 アトランタオリンピック

1996年のオリンピックはアメリカのアトランタでした。
もうこの辺になると記憶がかなり曖昧で、しかも混乱していて、正確なことは覚えていません。
でもこのアトランタオリンピックは、テロの被害があったので、それはよく覚えています。
事件の詳細までは知りませんが、オリンピックのメインスタジアムの周辺で観客、通行人を狙った無差別の銃撃事件があり、多数の死傷者が出たというものです。アメリカのことなので、おそらく犯人はその場で射殺されたと思います。
犯人は複数で、マシンガンで無差別に人々を撃ったと記憶しています。
あまりにも恐ろしいことです。よりによってオリンピックスタジアムの近くで、オリンピックの開催中に実行されました。

このアトランタオリンピックでも感動的な選手の活躍はあったと思いますが、僕の記憶に最も強烈に残っているのはこのテロ事件です。

アトランタ五輪について調べてみたら次のような事がわかりました。僕の記憶は間違っていました。


テロはマシンガンではなく、爆弾による爆破だったそうです。死者が2名、負傷者が111名も出たそうです。オリンピックでのテロはミュンヘンオリンピック(1972年ドイツ)以来だそうです。

日本は金メダルを3つ取り、その中にあの柔道の野村忠宏選手も含まれていました。野村選手はここからオリンピック三連覇を成し遂げるんですね。
同じく柔道の古賀稔彦選手は銀メダル、田村亮子選手も銀メダルだったそうです。
古賀稔彦選手は僕と同い年ですが、今年3月に病気で亡くなられました。
同い年だけにショックでした。古賀選手は引退後は女子柔道の指導者になり、谷本歩実選手をアテネ五輪金メダル、北京五輪金メダルに導きました。
もっと活躍して欲しかったです。ご冥福をお祈りします。
そしてこのアトランタ五輪では、女子マラソンの有森裕子選手がバルセロナに続き、銅メダルを取りました。オリンピックで二連続のメダルです。
この時有森選手が言った「自分で自分を褒めたいと思います。」という言葉はとても有名になりましたね。
なんでこんな事まで忘れてしまうんでしょう。

有森裕子選手です。

6 シドニーオリンピック

2000年のオリンピックはオーストラリアのシドニーでした。
南半球なので日本とは季節が逆ですが、時差はほとんどありません。
このシドニーオリンピックで最もよく覚えているのは、なんと言っても女子マラソンの高橋尚子選手の金メダルです。
当時高橋選手は積水化学に所属し、小出芳雄監督の元で練習していました。
その積水化学の本拠地が、僕の地元千葉県佐倉市なので、高橋選手のことはとても応援していました。
その当時、僕も市民マラソンに出ていましたが、佐倉朝日健康マラソン、成田POPランに小出監督とともにゲストで来ていて、感動しました。
実際に見る機会があるとは思っていなかったからです。

高橋尚子選手です。

シドニー五輪のマラソンは35km地点の登り坂が勝負のポイントだと小出監督は考えて、私財を投げ打ってその坂の近くに家を買います。
そしてそこを拠点としてコース全体とその坂道を入念に調べ、何度も走り、高橋選手とともに勝つためのプランを練っていきます。
そして本番のレースでは、予想通りの展開になり、その坂道でリディア・シモン選手を振り切り、女子マラソン史上初の金メダルを獲得しました。
これはとても感動的なレースでした。他のことはよく覚えていなかったので、調べてみたら以下のことがわかりました。


柔道の野村忠宏選手がオリンピック二連覇を達成。
田村亮子選手は3度目のオリンピックで悲願の金メダルを獲得。
井上康生選手(現在の日本柔道の監督)が金メダルを獲得。
シンクロナイズドスイミングでは、デュエットと団体で銀メダルを獲得しました。
また競泳では女子選手が二人銀メダルを獲得しました。

この調子で東京オリンピックまで書き続けるつもりだったんですが、ちょっと疲れてきたし、日付も変わってしまいそうなので、とりあえず今回はここで終わりにさせてもらいます。今回を前編ということにして、明日にでも後編を書きたいと思います。
中途半端で申し訳ありませんが、そのようにさせていただきます。
それにしても過去のことを思い出しながら書いたり、調べてみたりすると、忘れていた記憶がはっきりと掘り起こされますね。
柔道の谷本歩実選手はオリンピックを三連覇したものと思っていましたが、アテネと北京の二連覇だったんですね。
谷本選手は決勝で勝った後、脇で見守る古賀稔彦コーチに駆け寄り、壇上からダイブしました。
古賀コーチは谷本選手をしっかりと受け止めましたが、後になってアナウンサーから受け止めた時の気持ちを聞かれて、「確かに63kgありました。」と答えていたのがとても面白かったです。

では、今回はこの辺で。
ありがとうございました。

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