カーフェリーの旅の思い出

モーターボート、フェリー

こんにちは、鹿野一郎です。
先日、有名ブロガーのあんちゃさんが、2018年何月何日に公開したブログを読みました。
苫小牧から大洗まで1人でフェリーに乗った体験を記事にまとめたものです。
僕も若い頃は何度かカーフェリーの旅をした事があります。
あんちゃさんの記事を読んで、久し振りにカーフェリーの旅をしたいと思うようになりました。
今考えているのは、今年の夏、男の一人旅の第二弾として、あんちゃさんと同じ大洗・苫小牧のフェリーで北海道に上陸し、そこから車でサロベツ平原を通って稚内まで行くというプランです。
男の一人旅の第一弾は、城崎温泉と鳥取砂丘の旅でした。
往復1700kmの大ドライブでした。

高校の修学旅行で乗ったフェリー

僕は昭和42年生まれの54歳です。
高校は千葉県の私立高校で、修学旅行は7泊8日で九州に行きました。
長崎と阿蘇山に行ったのは覚えていますが、昔の事なので、あまり詳しい事は覚えていません。
行きは、東京から博多まで新幹線に乗りました。
博多から長崎まではおそらくバスだったと思います。
長崎から阿蘇山もバスだったと思います。
帰りは九州から大阪までフェリーに乗ったんですが、九州のどこから乗ったのか全く記憶にありません。
乗ったのは昭和59年の事で、大分昔なので、調べてもわからないと思います。

フェリーは丸ごと貸し切りで、他のお客さんはいませんでした。
船室には2段ベッドがあったように記憶しています。
窓は丸窓で、開閉しませんでした。
食事はおそらく船の中で晩ご飯と朝ごはんを食べたと思いますが、食事の内容は全く覚えていません。
微かに覚えているのは、決められた時間に班ごとにずらずらと行列をなして食堂へ歩いて行った事です。
歩いて行ったのは覚えていますが、食堂の様子などは全く記憶にありません。

なんと言っても修学旅行なので、フェリーの旅はとても楽しかったです。
友達とこっそり部屋を脱出して、デッキに上がってみましたが、夜間だったこともあり、とても恐ろしかったです。
万が一間違えて落ちても、誰も助けてくれないでしょう。
というより、誰にも気づいて貰えないでしょう。
夜の海は真っ暗で、その中をフェリーは大きな波を立てて黙々と進んでいました。

フェリーではお風呂にも入ったはずなんですが、これも全く記憶にありません。

大学の卒業旅行で乗ったカーフェリー

カーフェリーの旅で、最も強く印象に残っているのは、大学を卒業する時に学習塾のバイト仲間の佐とっちと2人で行った、九州旅行です。
1993年の事でした。
もう昭和が終わって、平成の世になっていたと思います。
佐とっちと2人で、長崎に行こうと決めて旅行に出発したんですが、お互いに10万円の現金だけを持って、ホテルの予約も取らずに出発しました。
出発は夜の11時だったと思いいます。
京葉道路から首都高速に入り、東名自動車道、名神自動車道、中国自動車道と乗り継いで九州に上陸する予定でした。
当時はまだナビゲーションなんていう物もなく、地図は紙の地図しかありませんでした。

今思えば、夜11時出発というのは恐ろしい計画です。
完全に徹夜運転を前提としているんですからね。
若いから平気でしたが、今だったらそんな恐ろしい計画は絶対に立てないです。

大阪を過ぎたあたりで、ローカルな自動車道に移ってしまい、摩耶というところで一般道に降りてしまいました。
どこかで道を間違えたようです。
なんとかして中国自動車道に乗りたいと思い、ガソリンスタンドで給油するついでに、店員のお兄さんに道を教えてもらって、言われた通りに行きました。
すると、あろうことか、瀬戸大橋を渡ってしまいました!
中国自動車道に乗るどころか、四国に上陸してしまいます。
朝靄に霞む巨大な瀬戸大橋の橋梁を見ながら僕は激怒していました。
ガソリンスタンドのあんちゃんにだまされたと思っていました。
瀬戸大橋は想像よりはるかに巨大で、行っても行っても終わりがありません。
瀬戸内海を縦断するんですから、当然そうなりますよね。

僕と佐とっちは、怒りが落ち着いた後は、どうやって九州に上陸するかを考えなければなりませんでした。
僕が運転し、佐とっちは助手席で地図を見ています。
やがて、佐とっちがカーフェリーで小倉こくらに上陸できることを見つけてくれました。

鹿野一郎
鹿野一郎

今時の若い人へ。
スマートフォンがなくても、紙の地図があれば、高速道路の料金やフェリーのルート、宿泊施設の場所などは調べれるんですよ。
昔はみんな紙の地図だけで旅行をしたんですよ。

カーフェリーは愛媛県の松山から福岡県の小倉まで行きます。
それに乗ろうということになり、一路松山を目指しました。
夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台ですね。

フェリー乗り場に着いたのは昼前でした。
でも出港は午後10時ということだったので、松山で観光をすることになりました。
まずは松山城に行き、次は男2人で遊園地に行きました。
徹夜で運転して松山まで行ったので、夕方には猛烈に眠くなって来ました。

そして夜、車でカーフェリーに乗り込みます。
当然一番安い二等船室のチケットを買いました。
二等船室というのは、ようするに鮨詰めの雑魚寝で、周りの人がうるさくて眠れないと聞いていましたが、そんな事はありませんでした。
何故か周囲は、若い女の子ばかりで、男は僕と佐とっちだけだったと言っても言い過ぎでは無いぐらいでした。
女の園に侵入した悪漢のような気分になりましたが、偶然そうなっただけで、なんの悪意も下心もないので、仕方がないです。
床は硬かったし、毛布も薄かったので、あまり快適ではなかったですが、まわりのいびきがうるさいとか、寝言がうるさいなんて事はまったくありませんでした。

話が前後しますが、このカーフェリーで一番印象に残ったのはお風呂です。
船の中の大浴場はとても面白かったです。
船なので、とにかく揺れるんですよ。
本当に大きく傾く時は、湯船のお湯が豪快にあふれてきます。
そして、足元に置いてあった桶などが全部流されてしまいます。
船が傾くたびに、どばーっと大量のお湯が流れて来て、桶がコーン、コーンと壁にぶつかります。
あれが最も印象的でした。

小倉に上陸したのは午前5時20分でした。
真っ先に吉野家で食事をして、それから長崎に向かいました。
つまり、船の上では何も食べなかったんだと思います。
大学生の貧乏旅行ですからね。
カーフェリーで食事なんていう贅沢は出来なかったんですよ。
もともとフェリーに乗るつもりはなく、瀬戸大橋を渡ってしまった時は、怒りに燃えていましたが、結果としてフェリーに乗れたのはとても良かったです。

後になって佐とっちが地図でエラーの原因を突き止めてくれました。
大阪の首都高速に入ってしまった理由は、吹田のジャンクションで、適切な方向に曲がらず、直進した事が原因でした。
ものすごくシンプルな、僕のミスでした。

予備校講師仲間で乗ったカーフェリー

時が流れて1998年。
僕は予備校講師になり、5年目を終えたところでした。
予備校講師という仕事は、2月、3月の年度の変わり目はとてもたくさん休みが取れます。
あの当時は毎年この時期に27連休が取れていました。

予備校の仲間のHさん、Nさんと3人で、九州に旅行に行こうと計画を立てました。
僕はカーフェリーを強く押し、カーフェリーを2つ乗り継いで九州に上陸する計画を立てました。
東京の有明埠頭から和歌山県の那智勝浦までのフェリーと、大阪府の泉大津から福岡県の新門司へ行くフェリーを乗り継いで九州を目指しました。
当時僕は8人乗りのスペクトロンという車を持っていたので、それで3人で行きました。

世間では映画「タイタニック」が大ヒットしていました。
僕は映画館で見て、とても感動し、ああいう豪華客船に乗りたいと思っていました。
フェリーでは、客室で僕がずっとタイタニックの話をしていたので、2人は迷惑そうでした。
Hさんは単にうるさいと思っていただけのようでしたが、Nさんは、船が沈没する話を船の中でしないでくれと、真面目に怖がっていました。
Hさんは今でも同じ予備校で働いていて、毎週顔を合わせますが、Nさんとはもう会う事はないと思います。

僕たち3人はその当時、同じ予備校で働いていましたが、その後、Hさんと僕は別のもっと大きい予備校に移りました。
Nさんはその予備校に残りましたが、のちにクビになり、もっと小さい予備校に移りました。
若い頃はこの3人組でいろいろなところに旅行に行きました。
とても良い思い出です。

僕は大学受験で浪人していた時から現在まで日記をつけているんですが、1998年3月11日の日記に以下のような記述がありました。


京成津田沼には2時5分頃に着いた。
そこでNさん、Hさんと合流して出発した。
京成津田沼から有明埠頭までは非常に近く、4時前に着いてしまった。
フェリー出航の時間は7時50分だ。
有明フェリー埠頭はお台場にある。
時間を潰すため我々はお台場にあるフジテレビを見学に行った。
テレビ局に行くのは子供の頃NHKに行って以来だったが、なかなか面白かった。
フジテレビの展望台からの眺めは最高だった。

暗くなってフェリー乗り場に行くと、旅行に行くという実感が湧いてきた。
ドライバーは車ごと乗船するが、それ以外の同乗者は別の通路から歩いて乗船するのだ。
僕が部屋に行った時にはすでに彼らがいた。
2等寝台の部屋は4人部屋で、2段ベッドが2つあった。
非常に狭い部屋で、ドアに鍵もなかった。
船のフロントは非常に広く、幅は船の幅一杯で奥行きも10m以上あっただろう。
食堂も広く、料理はバイキングだった。
でも味を考えると1600円は少し高いと思った。
風呂も綺麗で昼だったら大海原を見渡すことが出来ただろう。
ゲームコーナーも充実していた。
普通、こういうところのゲームは古い物が多いのだが、最近のゲームが多かった。
我々は風呂に入った後、食事をして、それからフロントで借りて将棋をした。
夜はなかなか眠れず、2時過ぎまであれこれ話していた。

3月4日。さんふらわあくろしお号はデッキに出る事が出来ないので、朝になっても外の景色は窓から見るだけだった。
しかも我々の2等寝台の部屋には窓がないので、わざわざロビーまで出て行かなければならなかった。
朝食は港で取る事にしたので、ただ身支度をして下船の時を待った。

那智勝浦の港には食事が出来るところはなかったので、そのまま那智の滝まで行った。
そこにあるおみやげ屋でうどんを作っていたので、それを朝食にした。



当時は2等寝台に泊まったんですね。
なぜ1等にしなかったのか、不思議な感じがしますが、予備校講師5年目を終えた段階では、まだそんなに余裕がなかったのかも知れないです。
それにしても窓がない部屋に泊まるとは驚きです。
そこまで我慢する必要もなかったのではないかと、今は思います。
でも、夜出発して朝には着いてしまうなら、窓があろうがなかろうが関係ないかもしれないですね。

続いて下が、大阪府の泉大津から福岡県の新門司へ渡るフェリーの様子です。


3月5日。
予定では高野山に行って関西国際空港に行ってから泉大津港に行くはずだったが、悪天候のせいで予定は大幅に狂ってしまった。
高野山に行くにはひたすら山道を行って途中から有料道路に入る。
有料道路を使うと高野山の後、関西空港に行くのも結構楽なのだが、一般道だけで行くとなると100km以上迂回しなければならない。
雨が降っていたが、まったく気にせず高野山に向かっていた。
しかし、有料道路の入り口でエラーが発生した。
山の上では雪が降っているので、チェーンがないと有料道路に入れないというのだ。
その時点で高野山行きは流れた。
それだけでなく山道を100kmも迂回しなければならなくなったので、関西空港も流れた。
それだけでなくフェリーに間に合うかさえ心配になった。
非常にイライラしながら運転していたが、港には余裕を持って着くことが出来た。
この日は雨の中、山道をスペクトロンで走るだけの一日となった。
しかし、フェリーは非常にゴージャスだった。
全長180mという巨大さで、6階建てになっており、中はホテルのように綺麗だった。
僕はスペクトロンごと入ったのだが、あとで行ってみるとエントランスはさんふらわあより遥かに広く、赤いじゅうたんが敷いてあった。
もちろんフロントもあり、ホテルのような作りになっていた。
90度にカーブしながら登る階段は手すりが金色に輝き、各段には無数の小さな明かりがちりばめてあった。
上にあがるともう一つフロントがあり、我々の部屋はさらにその上だった。
上にあがるのに、まずガラス張りのゲートをくぐって行くのだが、そこは1等船客しか入れない区域なのだ。
ゲートをくぐって階段を上り、しばらく歩くと我々の部屋があった。
部屋は大した事がなかった。
フェリー全体の作りを考えるともう少し立派でも良いのではないかと思ってしまった。
我々はまず風呂に入った。
その阪九フェリーの風呂では、かつて佐とっちと松山から小倉に渡ったときと同様に船の傾きにより湯船のお湯が豪快にあふれてくるのを体験できた。
それから食事をしたが、食事もさんふらわあよりずっと良かった。
フェリーは出航後、1時間ほどで明石海峡大橋をくぐり、11時半頃には瀬戸大橋をくぐった。
瀬戸大橋の時は3人ともオープンデッキに出ていた。
さんふらわあではオープンデッキに出ることは出来なかった。



うーむ。
これぞフェリーの旅という感じがしますね。
余程豪華な船だったんですね。
写真がないものかと思って探してみたら、将棋を差している時の写真が見つかりました。
見苦しい写真で恐縮ですが、下がその写真です。

僕です。広いですが、暗いですね。夜だからでしょうか。

カーフェリーから明石海峡大橋や、瀬戸大橋を見上げるなんて、結構凄い経験ですね。


あまり記憶に残っていませんが、なかなか贅沢なフェリーだったようです。

(ここに外で撮った写真を載せる)

家族旅行で乗ったカーフェリー

家族旅行でも一度だけカーフェリーに乗った事があります。
でも、船で宿泊していないし、お風呂にも入っていないし、食事もしていないです。
東京湾フェリーで千葉県の金谷から神奈川県の久里浜に渡りました。

日記を調べてみたら2019年の1月4日でした。
その日の日記には次のように書いてありました。


10時半頃に家を出て、まずは金谷港に向かった。
そこからフェリーで三浦半島に上陸するためだ。
東京湾フェリーに乗るのは今日が初めてだった。
金谷港は鋸山のこぎりやまのすぐ近くにあるので、金谷港には2回行った事があるが、フェリーに乗るのは今回が初めてだ。
葉山に行くならばフェリーなど使わず、直接高速道路で行った方が近いが、フェリーに乗りたかったからそうした。

金谷港に着いたのは12時21分だった。
12時半のフェリー(正確には12時25分)には間に合わないと思っていたが、間に合ってしまった。
係員があと4分後にフェリーが出ると言うので急いでチケットを買って乗船した。
東京湾を横切るだけのフェリーなのに随分大きい船だった。
トンボ(娘)にとってはこれまでの人生で最も大きな船だ。

年末は寒い日が続いていたので、フェリーでは船室内にいるつもりだったが、トンボがデッキに出たがるので外に出てみた。
すると思ったほど寒くなかった。
フェリーは金谷港を出航して40分で久里浜に上陸した。
久里浜に行くのは初めてだった。
クルル(愛犬)はフェリーの中ではずっと車の中にいてもらった。
かわいそうだが、船室には入れられないので仕方なかった。

今、娘は反抗期で、家族旅行にはもう行かないと言っています。
果たして、もっと大きくなったら家族で大きなカーフェリーに乗る日は来るのでしょうか?

実は、以前妻は豪華客船の旅に憧れていました。
新聞の広告を見て、いつかは乗りたいと言っていました。
客船はカーフェリーよりさらに豪華で、値段も高いと思っていましたが、宿泊費と食費が込みであることを考えると、そんなに高くないのではないかと話していました。
妻の話を聞いて、僕も調べてみました。
妻が乗りたがっていた船は、ダイヤモンドプリンセスという船です。
この船は、その後、ある事でとても有名になったので、今でも名前を覚えている方は多いと思います。

ダイヤモンドプリンセスにはいくつものクルーズがありますが、期間は1週間程度から数ヶ月に及ぶものもありました。
夏休みの期間中の1週間のクルーズだったら、日程的には都合をつけられますが、ことごとく平日に組まれているので、仕事や学校がある人は参加できないと思います。
しかもダイヤモンドプリンセスは外国の船なので、必ず外国に停泊します。
例えば、東京を出ても、必ず釜山港やウラジオストックなどに寄ります。
そのため、パスポートを用意しないと乗船できないんです。
なかなかハードルが高いです。

客室にはいろいろなタイプがあります。
一番安いのは、窓がない狭い部屋です。
記憶で書くので確かではないですが、1週間程度のクルーズだと18万円ぐらいだったと思います。
丸窓がつく部屋だと20万円ぐらいだったと思います。
丸窓は開閉しないので、風を取り込む事はできません。
開閉できる四角い窓のある部屋になるとさらに高くなります。
想像で書くと25万円ぐらいでしょうか?
さらに、バルコニーがある部屋になると、もっと高くなります。30万円ぐらいでしょうか。
もっと部屋が広くなると、ジュニアスイートで65万円だったのは覚えています。
その上にももっと格上のスイートが何段階かありましたが、一番高いスイートがいくらだったかは覚えていません。
まあ、贅沢の程度はお金次第という事ですね。

カーフェリーは、夜に出向して朝に到着するので、窓があるかどうかはそれほど大きな問題にはなりませんが、クルーズの旅の場合は、1週間以上船に乗っている事にもなるので、窓があるかどうかはとても重要な問題ですね。

いつかはダイヤモンドプリンセスに乗りたいと思っていましたが、今ではそう思わなくなりました。
カーフェリーはあくまでも移動の手段ですが、クルーズの旅は船そのものが目的で、車を載せる事はできません。
船でいろいろな景色を見たり、おいしいものを食べたりするのが、クルーズの旅の目的だと思います。
僕はそれよりは、車ごと運んでもらう、移動手段としての船の方が好きなようです。

2020年2月、横浜を目指して台湾から航行して来たダイヤモンドプリンセスの船内で、新型コロナウィルスの感染者が確認されました。
横浜に着くまでに船内で感染が拡大し、横浜に着岸しても、乗客の人々は降りる事ができず、長い間船内に隔離されて、自由に行動出来ませんでした。
あれは本当に気の毒なニュースでした。

スイートルームに泊まっている人は良いですが、窓がない18平米の部屋に泊まっている人にとっては地獄だったと思います。
そんな部屋に2週間も隔離されたら、心身ともの本当に参ってしまうと思います。
あまりにも気の毒なので、窓がない部屋の人々は、時間を決めて、デッキを散歩して良いという事になりましたが、それは当然の事だと思います。
感染症対策を完璧にやるならば、部屋から一歩も出さないようにするのが良いですが、それだと別の理由で悲劇が起こる可能性があったと思います。

サロベツ平原について

昔、NHKの番組で北海道のサロベツ平原を取り上げていました。
人間の手が全く入っていない、ありのままの自然が広がっているそうです。
サロベツ平原に魅せられて移住した人々を取り上げていましたが、それを見て、いつか行きたいと思っていました。
Googleマップだと、サロベツ平原ではなくて、サロベツ原野と表記されています。
僕の職場の友達の1人に、サロベツ平原に毎年行く人がいます。
大洗から苫小牧までカーフェリーで行き、苫小牧からバイクでサロベツ平原に行くそうです。
そして、テントを貼って野宿をすると言います。
その人によれば、道路以外の人工物は全くなくて、道路標識も電柱も電線もないそうです。
そういう原野が永遠に(?)広がっているそうです。

できれば今年の夏にでも行ってみたいと思っています。
行くならば僕も大洗から苫小牧までカーフェリーを使い、苫小牧からマイカーです。
サロベツ平原に行くならば、一番手っ取り早いのは、羽田から稚内まで飛んで、稚内でレンタカーを借りる事だと思いますが、それだと簡単に着きすぎて面白くないので、カーフェリーを使いたいと思います。

男の一人旅の第一弾は鳥取砂丘でしたが、第二段はサロベツ平原にしたいと思っています。

僕は2009年から2013年まで、5年間毎週水曜日は札幌で授業をしていました。
水曜日に成田から新千歳空港へ飛び、木曜日は新千歳空港から羽田に戻って、職場に向かっていました。
ある時、夜の札幌駅に特急サロベツという特急列車が止まっていました。
ディーゼルエンジンでも積んでいるのか、大きな音を立てていました。行き先は稚内だったと思いますが、行き先を示す表示や、車体の一部が凍っていました。
冬の札幌だと電車も凍るんです。
僕はそれを見た時、

鹿野一郎
鹿野一郎

この電車は、サロベツ平原を通って稚内まで行くんだな。
すごいな。
乗りたいな。


と思いました。

携帯電話を取り出して調べてみると、札幌から稚内まで8時間もかかるそうです。
凍りつく札幌からさらに北へ北へとひた走るその電車に、なんとも言えないロマンを感じました。
サロベツ平原には、本当に行ってみたいです。

今回はこんなところです。
ありがとうございました。

外部リンク「あんちゃさんのブログのカーフェリーの記事

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