こんにちは。鹿野一郎です。
今回は腕相撲の話をしたいと思います。
腕相撲の話はネタが結構あるので、この話はシリーズ化することになると思います。
自分で言うのも何ですが、僕は子供の頃から腕相撲が強かったです。
小学校の頃は無敵でした。
中学では無敵とはいきませんでしたが、同じ体重の人と勝負して負けることはありませんでした。
強い人は学年に何人かいましたが、全員背も大きくて、体格もがっしりしている人々でした。
高校時代はおそらく最強だったと思います。
一度も負けた事がありません。
浪人時代は僕より強い人が1人いましたが、やっぱりその人も背も体重も大きい人でした。
腕相撲が何故強いかと言われたら、生まれつきだと思います。
別に腕相撲が強くなるための訓練などしていないけど、小さい頃から強かったです。
大学生の頃から筋トレをするようになりましたが、一般的な筋トレと腕相撲で強くなる訓練は違うと言われています。
なので、本当に生まれつきとしか言いようがないと思います。
大学では混声合唱団に入りました。
僕が大学に入学したのは1987年の事でした。
僕は大学受験で浪人していた5月5日から、現在まで日記を書いていますが、大学に入学してから10月までの半年間は日記をつけていませんでした。
だから、夏に試合に出た時の日記は存在していません。
そのため今回の文章はすべて記憶を元に書くことになります。
一年浪人して、僕は東京理科大学理学部物理学科に進学することになりました。
大学では空手部に入るつもりでしたが、当時の新入生歓迎のやり方は結構強引で、ほとんど本人の希望に関係なく、混声合唱団とワンダーフォーゲル部に入部することになりました。
混声合唱団に入ることになったのは、強烈な勧誘で気を良くしてしまったからです。
ワンダーフォーゲル部に入ることになったのは、ワンダーフォーゲル部に入りたい友達に付き添ってワンダーフォーゲル部のブースを訪ねてしまったからです。
大学に入学したての頃、学生を体育館に集めて、部活動、サークルの勧誘の行事がありました。
次々に部活やサークルの代表者がステージにあがって、自分たちの活動をアピールします。
僕はこれを楽しみにしていて、まるで学芸会でも見るような気分でパイプ椅子に座ってみていました。
「歌う友の会」というサークルの勧誘は特に派手で面白かったです。
歌がうまいか下手かは一切問わないから、楽しく歌いたい人はぜひ来てくださいというような感じの勧誘でした。
気づくと僕のひざをつんつんとつつく人がいます。
何かと思ったら、通路に女の人がしゃがんでいました。
しゃがみ歩きで僕のところまで来て、僕のひざをつついたんです。
あまりの驚きに僕は声が出ませんでした。
その女性は僕に次のように言いました。
ねえ、混成合唱団だけど、今から外に出てお茶でもしない?。
僕は心底驚いてしまい、現実を信じられませんでした。
こんな経験は後にも先にもこの時だけですよ。
僕は、まだ他のサークルの説明が残っているからと言って断ろうとしましたが、その人は結構強引で、僕は会場を抜けることになってしまいました。
ちょうど外に出ところで、僕は後ろから誰かに呼び止められました。
振り返ると、浪人時代に予備校で知り合った友達のDERAさんが立っていました。
会場を抜け出してどこに行くのか?その人は誰なんだ?
というような感じでした。
僕は、この人は混声合唱団の人で、お茶を飲みながら説明してくれるというから、これから行くんだと答えました。
するとそのDERAさんは、
オレも行く。
と言ってついて来ました。
正直僕は救われました。
知らない女の人と、2人で喫茶店に入るなんて、当時の僕にはあり得ないことで、どうなってしまうのかと不安に感じていたからです。
しかも場所は地元の千葉県ではなく、神楽坂ですよ。
神楽坂の喫茶店なんて、入るのは生まれて初めてでした。
その日、喫茶店でどういう話をしたのか細かいことは覚えていませんが、僕とDERAさんは2人揃って混声合唱団に入ることになってしまいました。
僕は随分と断りました。
僕が、
僕は声がとても低いから合唱なんて無理ですよ。
というと、
ちょうど今、ベースが足りないから助かるのよ。
と言われ、
僕は音痴だから迷惑をかけるだけですよ。
というと、
毎日練習していればすぐに上手になるわよ。
と言われ、まさしくああ言えばこう言うという感じでした。
腕相撲の話をするのに、何故混声合唱団に入る話をしているのかというと、そこで僕を試合に誘った友達のガメシと出会ったからです。
一度だけ小規模な試合に出ました。
1987年、シルベスター・スタローン主演の映画、「オーバー・ザ・トップ」が公開されました。
僕はこの映画を映画館で見て感動しました。
おそらくスタローンの映画で、初めて映画館で見たのが、このオーバー・ザ・トップだったと思います。
高校時代にテレビで「ロッキー」(1976年)、「ランボー」(1982年)を続け様に見て、すっかりシルベスター・スタローンのファンになっていました。
オーバー・ザ・トップは主人公がアームレスリングをしていて、アームレスリングの試合の場面もたくさん出てくる映画です。
アームレスリングの映画といっても良いぐらいでしょう。
この映画の影響で、世間でもアームレスリングがちょっとしたブームになっていました。
僕も仲間たちと好んで腕相撲をしていました。
この混声合唱団にガタイのいい友達が1人いました。
身長は高くないですが、かなりがっちりした友達です。
それがガメシでした。
ガメシから挑戦を受けて、僕たちは腕相撲をすることになりました。
でもその日にすぐ勝負をするのではなく、わざわざ日程を決めて後日勝負をすることにしました。
この勝負は合唱団の中では随分と話題になりました。
一体、どっちが勝つのか?と人々の関心を呼びました。
僕はどうしても勝ちたかったですが、相手はかなり強そうです。
考えると不安でしかたなかったです。
そしていよいよ決戦の日、部室で対戦しました。
勝負を見ようと集まった人は10人ぐらいいました。
結構な盛り上がりの中、勝負が始まりました。
「Ready Go!」の合図で渾身の力を込めて腕を倒しに行ったら、ガメシは思ったほど強くなく、簡単に勝ってしまいました。
友達は驚き、まわりのギャラリーも驚いていました。
僕は勝つ事が出来てほっとしました。
でも映画の主人公になったような高揚感を味わう事が出来ました。
後日、ガメシから試合に出ようと言われました。
7月か8月だったと思います。
ちゃんとした正式な試合ではなく、誰でも出られる小規模な試合が錦糸町で開催されるから一緒に出ようと言われました。
断る理由はないので、僕も出ることにしました。
その当時はアームレスリングがちょっとしたブームになっていましたが、その同じ日に後楽園ホールで大きな試合があったそうで、その小規模な試合には競技者としてのアームレスラーは来ていませんでした。
集まったのは錦糸町の遠藤光男ジムです。
普通の筋トレをするジムです。
そこにアームレスリングの台が設置されていました。
集まった選手(と言ってもみんな普通の人ですが)は12人だったと思います。
Aクラスの部と一般部がありましたが、全員一般部で、Aクラスの選手はいませんでした。
この日知ったんですが、一般部で優勝するとAクラスに格上げになるそうです。
12人を4人ずつ3つのグループに分け、その4人でトーナメントを組みます。
トーナメントで勝ち上がった3人と、勝ち上がった人に負けた人々を集めた敗者復活戦を勝ち上がった1人を合わせて、決勝は4人の総当たり戦で行います。
僕の最初の相手は飯田さんというゴツくてでかい人でした。
背は175cmぐらい、体重は90kgから100kgぐらいでしょうか。
それに対して当時の僕は身長164cm、体重72kgでした。
飯田さんは重機のように強くて、僕は一瞬にして負けてしまいました。
あんな負け方をしたことは初めてでした。
一瞬の勝負でしたが、試合後は右腕と両脚がわなわな言っていました。
相手がすごい力で押しつぶしてくるのを耐えるために、両脚にもかなりの力がかかったんでしょう。
筋肉がわなわな言っていました。
ガメシも最初の試合で負けてしまい、2人とも敗退しました。
が、僕を倒した飯田さんはトーナメントを勝ち上がったので、僕は敗者復活戦に出られることになりました。
ガメシは敗者復活戦に出られなかったので、ただ僕の応援をしてくれました。
敗者復活戦はすべて勝って、決勝に進む事が出来ました。
でも全員強かったです。
普段腕相撲をするときは、まるで本気を出さなくても相手をねじ伏せる事ができていましたが、試合に出てくる人々はみんな強くて、気を抜いたら負けてしまうような人ばかりでした。
全ての試合、全力で戦って、何とか敗者復活戦を制した感じでした。
決勝に出る4人は飯田さんと僕の他は、上野さんという人と、もう1人いました。
上野さんは身長180cm、体重80kgぐらいの人でしたが、もう1人の人は名前も顔も体格も覚えていません。
この4人で総当たり戦をするので、3回試合をしましたが、僕はすべて負けました。
飯田さんはもちろんとして、上野さんももう1人の人も本当に強かったです。
飯田さんは全勝で優勝しました。
そして飯田さんは次の大会からAクラスで出ることになりました。
世の中にこんなに強い人がいるのかと、思い知らされる1日でした。
が、本当に強い人が出てくるのはこの後でした。
試合後は、せっかく集まったのだから練習会をしましょうという話になり、何試合も腕相撲をしました。
そのとき、試合中ずっと筋トレをしていた人が、ジムのスタッフに呼ばれて練習会に入ることになりました。
その人はAクラスの選手で、とても強いので、一緒に練習すると良いと説明されました。
Aクラスの怪物
Aクラスの選手は、年齢は20代後半ぐらいに見えました。
身長は180cmぐらいでしょうか?もしかしたらもう少し低いかもしれないです。
角刈りでピンクの袖なしのシャツを着ていました。
腕が太く、肩がでかくて、見ただけでただものではない事がわかりました。
ある人がそのAクラスの選手と練習試合を始めたら、驚くべき事が起こりました。
Aクラスの選手はガムをかみながら練習試合に出ていましたが、相手が青筋を立てて渾身の力を振り絞ってもまったく表情を変えることなく、スタートの位置に腕を静止させたまま、ガムを噛んでいました。
そしてAクラスがひょいと腕を上に持ち上げたら、相手の人は床から足が離れて空中に浮いてしまったんです。
なんだ、あれは?腕相撲じゃないじゃん。
と思うだけで、この時はまだこの事の恐ろしさをわかっていませんでした。
やがて僕の番が回って来て、僕もそのAクラスと対戦しました。
すると、本当に重機で引き上げられるような感覚で体を持ち上げられてしまいました。
自分がやられて初めてわかりました。
相手が化け物だということをです。
世の中にはこんなバケモノがいたのか!
と思いました。
その怪物が相手だと、優勝した飯田さんですら大人と子供でした。
まるでレベルが違う怪物でした。
毎週土曜日の練習会
試合が終わった翌日、僕は右の上腕二頭筋と大胸筋がひどい筋肉痛になっていました。
両足の大腿四頭筋も筋肉痛になっていましたが、上半身の筋肉痛は1週間抜けなかったです。
ダンベルやバーベルでトレーニングをするのとはまるで違う筋肉痛でした。
試合会場だった遠藤光男ジムでは、その当時は毎週土曜日の夜にアームレスリングの練習会をやっていました。
あんな感じで、強い人ばかりで集まって、1日に10試合も20試合もこなしていけば、間違いなく強くなるだろうと思いました。
腕相撲を強くなりたかったら、そういう練習会に行くべきだと思います。
1人でダンベルやバーベルをいじっていても腕相撲は強くならないと思います。
僕はもっと強くなるために何とかその練習会に出たいと思っていましたが、結局一度も出ませんでした。
錦糸町は大学へ行くのに通る場所ですが、土曜日の夜はアルバイトをしていたので、そっちを優先させました。
選手登録をする必要もなく、誰でも出られる気軽な大会でしたが、とても楽しかったです。
そして驚いたことに、その試合の様子は翌月の月刊ボディービルに載っていました。
写真も一枚だけ載っていました。
試合後に全員で撮った集合写真です。
なので、一応僕も写っていました。
あれぐらい気軽に出られるアームレスリングの試合が今でもあるならば、是非出たいと思います。
一回戦で負けてしまっても、練習会という形で何試合も出来るのはとても良かったです。
この試合に出たことで、僕は競技者としてのアームレスラーの恐るべき強さを知りました。
もし僕が本気でアームレスリングに取り組んだとしても、絶対に通用しないと思いました。
終わりに
今回の話はこれで終わりにしますが、腕相撲に関しては書く事がまだ他にあります。
極真空手をやっていた頃、夏合宿に2回参加しました。
夏合宿では余興として腕相撲大会をやります。
個人戦と団体戦がありますが、僕は2回とも個人戦に参加しました。
大学を出て予備校講師になった後、若かった頃はよく生徒から腕相撲の挑戦を受けました。
かなりの回数、勝負したと思います。
また、僕の弟からも何度も挑戦を受けました。
弟は高校時代、腕相撲は学年最強だったそうですが、僕と勝負すると大人と子供で、全く話になりませんでした。
でも、弟は体操部に入り、猛烈に体を鍛え始め、だんだん強くなっていきました。
小学生の頃にも腕相撲でエピソードがあります。
二年生だった時に、教育実習で来たコンタニ先生(男性)は、まるで体操選手のような逆三角形の体をした、スポーツマンでした。
クラスではとても人気があった先生ですが、僕はその先生から男の優しさというものをおそらくことになりました。
それも腕相撲を通してです。
このようなエピソードは、今後たまに書いていきたいと思います。
僕は今でも予備校講師をしていますが、もう最近は生徒から腕相撲の挑戦を受けることもなくなりました。
若い先生には生徒も気軽に挑戦できるでしょうけど、もうすっかりおじさんなので、腕相撲で挑戦しようなんて考えないでしょうね。
それに今はコロナなので、腕相撲は論外ですね。
今回はこの辺です。
ありがとうございました。