本埜スポーツプラザに行ってきました。平成の大合併で本埜村消滅!

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こんにちは、鹿野一郎です。
今日は2022年9月21日の水曜日です。

先日、愛犬の散歩で、本埜スポーツプラザに行ってきました。
本埜という字が読めますか?
おそらく近くに住んでいない人は読めないですよね。
「もとの」と読みます。



愛犬の散歩では主に近所を歩きますが、同じところばかり歩いていると飽きるので、たまに車で遠くに行きます。
印旛沼、牧之原公園(印西市)、岩名運動公園(佐倉市)、利根川の河川敷などに行く事が多いですが、先日はどこか新規開拓しようと思って、カーナビで周辺の公園を検索してみました。
すると、本埜スポーツプラザが出てきたので、行ってみようと思っていました。

千葉県印旛郡本埜村もとのむらはなんとなく知っている程度で、具体的な範囲はわかっていませんでした。
どこからどこまでが本埜村もとのむらなのか、漠然としか知りませんでした。
本埜駅という駅はないので、本埜村には鉄道は走っていないのだろうと思います。
だから村の中心地はおそらく村役場のあるところだろうと思いました。
本埜村というと、森と畑と道ばかりで、人はほとんど住んでいないという認識でした。
その本埜村にスポーツプラザがあるというので、とても興味を持ちました。

本埜もとのスポーツプラザ

ナビの言う通りに行くと、ほとんどが知っている道でした。
最後に右折した場所も知っていました。
その近くにドッグランがあって、そこに行くときに走った事があります。
そもそも田舎の道は数が少ないので、ぐるぐるドライブをしていれば、車で通れる道は大体走り尽くします。
ここを右折したところにスポーツプラザなんてあったかな?
と思っていると、見えてきました。

車を停めて、愛犬を下ろして歩き始めます。
駐車場から野球場が見えました。
ちゃんと照明もついています。
ただ、巨大なスコアボードはありませんでした。
駐車場から階段を登って野球場のすぐ脇に出ます。
今日は誰も使っていないようで、野球場には人がいませんでした。
でも、野球場の奥に車がたくさん止まっていました。
どうやら駐車場は他にもあったようです。
僕は敷地に入ってすぐのところに止めましたが、他には車が一台もいませんでした。
それは、誰もこの施設を使っていないからではなく、みんな奥の駐車場まで車で乗り入れていたからでした。



野球場の脇に出ると、左奥手に大きな建物が見えました。
あれがスポーツプラザの本体なのだろうと思いましたが、体育館ではありません。
4階建ての鉄筋コンクリートの建物でした。
近くに行くと、子供たちの声が多数聞こえてきます。
その建物の中からです。
中にプールでもあるのかなと思いましたが、よくわかりませんでした。
やがて左手に広めの芝生の空き地が見えてきました。
一段低い場所になっていましたが、愛犬の散歩にうってつけなので、階段を降りて行きました。
一体この場所は何なんだろうと思って歩いていましたが、そこはゲートボール場でした。
ゲートボールをするには草が伸びすぎていると思いましたが、全部刈り取ればちゃんとした会場になるでしょう。
そのゲートボール場の隣にテニスコートがあり、元気な高齢の男女がプレーをしていました。


ゲートボール場をひと回りしてから、鉄筋コンクリートの建物の正面に出てみました。
すると、それは公民館だとわかりました。
公民館にしてはかなり巨大です。
そして窓の3階からチラリと見えたんですが、どうやら3階で子供たちがバスケットボールをしているようでした。
何故体育館ではなく、ビルの中でやっているんだ?
と思いましたが、考えてみたら本埜スポーツプラザには体育館はありませんでした。
サッカー場はありましたが、プールや体育館はありませんでした。



これは地域格差だなと思いました。
本埜村というのは僕の認識では、森と畑と道しかなくて、人がほとんどいない村でした。
だからスポーツプラザがある事自体が驚きでしたが、そこの公民館の3階で子供たちがバスケットボールをしているのを目の当たりにすると、かわいそうに感じてしまいました。
子供たちがいて、バスケットのチームがあるなら、体育館ぐらい作ってあげても良いのに、と思いました。
本埜村にも小学校や中学校はあるはずです。
そこの体育館は、部活動で使っているのでしょうか?
だとしても、天井の低い公民館でバスケットボールをするのがかわいそうに思いました。

生まれた場所によって、こういう格差があるのは仕方ないと思います。
僕の娘は小学校の間はトランポリンを習っていました。
家のすぐ近くにクラブがあったので、楽に通えましたが、そのクラブには遠くだと成田や印西(いんざい)から来ている子もいました。
また、友達の娘さんは小さい頃、チアダンスを習っていましたが、本埜村だとそんなことは出来ないのではないでしょうか?
娘の友達にはフィギュアスケート、新体操や乗馬をやっている子もいますが、本埜村だと難しいと思います。

いろいろな事を考えながら、中をぐるりと一周しました。
僕は千葉県佐倉市に住んでいるんですが、本埜スポーツプラザは、佐倉市の岩名運動公園と比べると、かなり貧弱な設備でした。
成田の中台運動公園と比べても、八千代市の運動公園と比べても遥かに劣ります。
それは、そこが本埜村だから仕方がないんだと思います。



本埜スポーツプラザにあるのは、野球場、サッカー場、テニスコート、ゲートボール場、公民館、遊具でした。
スポーツプラザを出た後、本埜村の中心地がどこなのか興味が湧いてきたので、村役場を探して行ってみました。
でも、カーナビでは村役場というのは存在しませんでした。
僕が行った場所は、印西市本埜支所というところでした。
行ってみると知っている場所でした。
何度も前の道を通った事があります。
その道を西に進むと、成田線の小林駅に出て、東に進むと北印旛沼方面に抜けます。
なぜ、本埜村役場という名称じゃないのか気になりました。
そもそも、本埜村の正確な範囲も知らないし、人がどのくらい住んでいるのかも見当がつきませんでした。

印旛郡本埜村は2010年に消滅したそうです

本埜村の事を調べようと思って、帰宅してからパソコンに向かいました。
おそらく若い人たちは、調べようと思ったらすぐにその場でスマートフォンで調べると思うんですが、僕は年代的にパソコンの方が遥かに扱いやすいので、スマートフォンでの調べ物はしないです。
ウィキペディアで本埜村をみてみたら、衝撃の事実を知ってしまいました。
今、2022年の現在、千葉県に本埜村という村はないんです。
ウィキペディアには、かつて千葉県に存在した村と書いてありました。
衝撃的でした。
本埜村がなくなっていたなんて全く知りませんでした。

本埜村は2010年に印西市いんざいしの一部として吸収されて消滅したそうです。
だから本埜村役場ではなく、印西市本埜支所だったんですね。
ウィキペディアによると、旧本埜村の面積はおよそ24平方キロメートルだそうです。
長方形に例えると、縦4km、横6kmですね。
人口は9500人程度だったそうです。
やっぱり少ないですね。
佐倉市が15万人ぐらい、船橋市が60万人ぐらいなので、圧倒的に少ないと思います。



本埜村は2010年に印西市に合併吸収されたそうですが、その印西市は1996年に印旛郡印西町いんざいまちから千葉県印西市いんざいしに昇格しました。
千葉ニュータウンの開発が進み、人口が流入して、5万人を突破したのが昇格の理由だったと思います。
印西市が誕生した時の事は今でも覚えています。
その印西市が、本埜村を吸収し、さらに巨大になったそうです。
印西市の人口は、現在はおよそ11万人だそうです。
千葉ニュータウンは今度も開発が進み、ますます人が増えると思うので、そのうち佐倉市を抜く可能性もあると思います。

調べた範囲では、旧本埜村には駅はありませんが、鉄道は走っているそうです。
おそらく成田線ですね。
成田線というのは我孫子から成田までをつなぐ電車です。
僕も2回か3回乗った事がありますが、当時に記憶で書かせてもらうと、完全にローカル電車です。
所要時間は当時で45分ぐらいだったと思いますが、電車の本数がとても少なくて、我孫子から成田に気軽に行ける感じではありませんでした。
僕が成田線に乗ったのは、もう25年ぐらい前の事だと思いますが、おそらく今でもあまり変わっていないと思います。

ローカル線の特徴は、まず第一に本数が異常に少ない、第二に停車時間が異常に長い、第三に線路上で意味もなく止まる、だと思っています。
総武線でも佐倉から成田の間だと上記の3つが見られます。(ここ20年ぐらい確認していませんが、以前はそうでした。)
なぜ線路上で止まるのか、僕には理解できません。

2022年現在千葉県にある村は長生村だけだそうです

本埜村がなくなってしまったなら、もうこの辺では村は印旛村しか残っていないのではないかと思って調べてみたら、なんと印旛村も本埜村と同じ時期に印西市に吸収されてしまったそうです。
印旛郡印旛村ももう千葉県にはありません。
印旛郡本埜村もありません。
印旛郡印西町から昇格した印西市に両方とも吸収されてしまいました。
では、この辺りで村はどこが残っているのだろうと思って調べてみて、衝撃の事実を知ってしまいました。
なんと千葉県に現存する村は、長生村ただ一つだったのです。

みなさんは、長生村という地名が読めますか?
これは「ながいきむら」ではなくて、「ちょうせいむら」です。
本埜村もとのむら印西市いんざいしに比べれば読みやすい地名ですね。
長生村は太平洋に面した村です。
地図で調べると、外房線の八積という駅があります。
長生村は一宮海水浴場のすぐ近くです。
北には白子町しらこまちがあり、南には一宮町いちのみやまちがあります。
東は九十九里浜で、西には長柄町ながらまち長南町ちょうなんまちがあります。
もしかしたらこれらも将来一つ合併して大きな市が出来上がるんでしょうか?
少し北にあった、大網白里町おおあみしらさとまちも今では大網白里市になってしまいました。
そもそも、大網町おおあみまち白里町しらさとまちが合併して大網白里町になったんだと思いますが、いつの間にか市になっていました。

平成の大合併が行われたのは随分前のことだと思いますが、その頃に大量の村や町が消滅したんだと思います。
インターネットで消滅した町や村を調べてみたら、千葉県だけでも数えきれないほど出てきました。
1900年頃から合併、消滅を果てしなく繰り返し、現在も続いているようです。
ならば今後も続いていくんでしょう。

僕が小学生だった昭和の頃、引っ越しもしていないのに実家の住所が変わった事がありました。
今思えば、それは僕が当時住んでいたとても小さな町が消滅したからでした。
町といっても、市町村のレベルの町ではなく、市の中にあるさらに小さな町です。
どういう訳か市町村レベルの大きな町は「まち」と読み、市の中にある小さな町は「ちょう」と読みますね。
都会に住んでいる人は、この「まち」の読み方を知らない場合が多いので、例えば千葉県香取郡神崎町という字を見ると、「ちばけんかとりぐんかんざきちょう」と読むと思いますが、違います。
正解は「ちばけんかとりぐんこうざきまち」です。
「まち」はともかく、「こうざき」はまず読めないですよね。
僕も最初は「かんざきちょう」って読んでいました。

世の中は常に移り変わっていきますね。

若い頃はあまり考えなかったですが、時が経つとどんどん世の中は変わっていきますね。
昔あったものがなくなり、なかったものが出来てきます。
僕は小学生だった昭和40年代を東京都品川区小山台で過ごしました。
たまに懐かしくなって訪れる事がありますが、もう全く違う街になっていますね。
当時の家や個人商店はほとんど姿を消し、小規模なアパートなどに変わっています。
道幅は変わっていないので、自分がどこにいるのかはわかりますが、僕が当時住んでいた社宅も今はマンションになっているし、当時はなかった道路が造られて、友達の家だったクリーニング屋がなくなったりしていました。
昔の思い出は、もう記憶の中にしかなくて、この世には存在しないんです。

僕はよく家の中の写真を撮りますが、それは良い事だと思っています。
29歳で一人暮らしを始めてから現在までに3回引っ越しをしましたが、引っ越してしまうと部屋の中の写真がとても貴重なものになります。
また、引っ越しをしなくても5年、10年と経つと部屋の中の様子がずいぶん変わるので、やっぱり写真に残すのは貴重な事だと思います。
ブログを始めたことによって、以前より遥かにたくさんの写真を撮るようになりましたが、近所の風景も今度どんどん変わっていく可能性があるので、なるべく多く写真に残したいと思います。

今回は本埜スポーツプラザを訪問したことで、いろいろな事を知り、考える事ができました。
今回はこんなところです。

ありがとうございました。

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