我が青春の犬吠埼

その他


こんにちは、鹿野一郎です。
昨日、およそ10年振りに千葉県銚子市の犬吠埼を訪れたので、今日は犬吠埼について書きたいと思います。
若い頃は、犬吠埼には数えきれないほど行きました。
電車で行った事は一度もなく、毎回車で行っていました。
しかも、若い頃は昼間に行った事が無くて、ほとんど毎回真夜中に行っていました。

学生時代、僕で学習塾で講師のアルバイトをしていました。
千葉市内の塾で、小中学生に算数と数学を教えていました。
塾の授業が終るのが9時頃で、その後でミーティングなどをして、大体10時頃にはあがります。
その後、バイト仲間でファミリーレストランに行って食事をし、あれこれ話して、深夜に解散するのがいつものパターンでした。
そして、ある時から、ファミリーレストランでの食事の後に、犬吠埼に行くようになったんです。
おそらく学生時代は少なくても月に1回、多い時は週に2回は犬吠埼に行っていたと思います。

車は1人1台

僕が塾講師のアルバイトを始めたのは20歳の時でした。
大学受験で1年浪人して、大学2年生にあがる時に始めました。
1人で40人近い中学生を相手に授業をする仕事なので、最初は大変でした。
給料は60分2000円で始めましたが、予想外にたくさんの仕事を任せてもらえたし、時給は毎年上がって行ったので、学生時代はちょっとしたお金持ちでした。
月20万円ぐらいの収入がありました。
初めの頃はお金に目がくらみ、じゃんじゃん使っていました。
ビデオデッキを買って、レーザーディスク(DVDの前身のようなもので、光学ディスクでしたが、LPレコードぐらいのサイズがありました)プレーヤーを買って、40インチのプロジェクションテレビを買って、車の免許を取って、車を買い、バイクの免許を取って、バイクを買いました。
もちろん、全部キャッシュで買える訳ではないので、ローンが積み上がり、月々の支払いは16万円を超えていたと思います。
その後、塾での仕事量が減って、支払いがぎりぎりになり、金持ちから一気に貧乏人へと転落しました。
あの頃のきつい経験があるので、それ以降無駄遣いはしなくなりました。

それはおいといて、学習塾のアルバイトというのはかなりお金になったので、バイト仲間の友達もほぼ全員自分の車を持っていました。
だからファミリーレストランに食事を行くにしても、5人で車5台という具合でした。
でもさすがに犬吠埼に行く時は、1人1台だと話し相手もいないので、皆で乗り合わせて行きました。
2人、3人で行くなら1台、4人、5人、6人で行くなら2台という感じでした。
車を出さない人の車は塾の駐車場に止めておきました。
犬吠埼まで行って戻ってくると明け方になっている事が多かったですが、一度塾の駐車場に戻って、そこでそれぞれの車に乗り換えて家に帰っていました。

車内での会話

犬吠埼には灯台があります。
真夜中の灯台というのは、最初は怖かったです。
犬吠埼の海岸沿いには遊歩道があるんですが、真夜中に行くと、本当に暗闇の中に階段で降りて行く感じで、最初の頃はとても怖かったです。
犬吠埼に何をしに行っていたかというと、実は特に目的はありませんでした。
犬吠埼その物よりも、往復の車の中での会話の方が重要でした。
全員男子大学生だったので、車内での会話と言ったら、

「彼女が欲しい。」

「いつまでの大学生でいたい。」

「就職なんかしたくない。」

「どうやったらもっと良い授業が出来るだろうか」

「何か良い事ないかな」

というような事ばかりでした。
若い頃はあれこれ悩み、友達と随分いろいろ議論もしました。
あの頃は、本当に社会人になるのが嫌でした。
毎朝満員電車を我慢して会社にいき、巨大組織の歯車として働かされ、残業があり、転勤があり、夏休みもまともに取れないなんて、考えるだけで嫌でした。

僕が大学を卒業したのは1993年の3月です。
バブル崩壊から2年後の事でしたが、まだまだ今(2022年2月)と比べると圧倒的に景気は良かったと思います。
というより、バブル経済絶頂期に、一体日本のどこが景気が良いのか全く分かりませんでした。
大学生だったからなんでしょうか?
ただ、テレビで見て驚いたのは、中古のカウンタックLP400が7000万円で売買されていた事です。

鹿野一郎
鹿野一郎

新車で2000万円の車がなんで中古で7000万円なんだ?

という驚きがありました。
あの頃は、土地も車もどんどん値上がりし、あぶくのように資産が膨れ上がって行く時代だったようです。
バブル崩壊のニュースもはっきりと覚えていますが、「だから、何?」ぐらいにしか思っていませんでした。
バブル崩壊直後は景気が悪くなったとは感じませんでしたが、その後、確かに景気が悪くなって行って、1997年のロシアの通貨危機の時はかなり世相が暗くなっていたと思います。
1993年から1997年にかけての日本経済の転落のスピードはすごく速かったと思います。
あの時、職場の誰かが、「ノストラダムスの予言、当たっちゃったね。」と言っていたのを覚えています。

僕が大学生だった頃は、世の中はバブル景気で浮かれていて、就職先に困る事もまずなかったのに、それでもサラリーマンにはなりたくない!と自分の運命を嘆いていたものでした。
今から思えば、なんという贅沢な甘ったれだったんでしょう。
まあ、あの頃は塾から犬吠埼までの往復3時間の道のりではそのような会話をしていました。
ある時など、犬吠埼に着いたと思ったら、車から降りもせず、そのまま帰路についた事もありました。
重要なのは車内での会話であって、犬吠埼ではなかったんです。

花火と言ったら犬吠埼

塾のアルバイトのメンバーは意外と入れ替わりがありました。
毎年新しい人が入ってくるし、卒業して出て行く人もいました。
花火というのは子供がやる物と思っていたんですが、ある日仲間の一人が「花火をやろうぜ!」と言ったので、じゃあ、犬吠埼でやろうという話になりました。
コンビニエンスストアで総額1万円ぐらいの花火を買って、犬吠埼に着いてからから皆でやりました。
もちろん真夜中です。
花火は子供がやるものと思っていましたが、大学生が仲間で集まると、花火をやっても面白かったです。
かなり大量の花火を買って行ったので、やってもやってもなくならない感じでした。

花火の遊びは段々エスカレートして行き、一時は常軌を逸していました。
昔の事だから書きますが、もし近くにお巡りさんがいたら、全員連行されていただろうと思われるような事もしました。
もう30年も前の話だし、その時しかそんなことはしていないと断っておきますね。

いつものようにコンビニで花火をどさっと買って、犬吠埼を目指していました。
その時は車2台でした。
仲間の1人が、犬吠埼につくまで我慢出来なくなって、後の車から前の車に向けて打ち上げ花火を水平に打ちました。
するとそれに応戦する形で、前の車も後に向かって打ち上げ花火を打ちこんで来ます。
それだけでなく、道路にかんしゃく玉をばらまくので、運転手はそれをよけながら蛇行して走りました。
よりによってそれをトンネルの中でやっていました。
後の車は激しくクラクションを鳴らしながら、左右の窓からロケット花火を発射していました。

あの時は楽しかったんですが、今こうして文章にすると、本当にとんでもない大馬鹿野郎共ですね。
良い子は絶対に真似しないで下さい。

ここで良く花火をしていました。

肝試しと言ったら犬吠埼

夏にはよくバイト仲間で肝試しをしました。
肝試しをするのに真夜中の犬吠埼の遊歩道はうってつけでした。
最初は本当に怖いんですが、慣れるとすぐに平気になってしまいます。
実は遊歩道には1つトンネルがあります。
長さは30メートルぐらいでしょうか。
初めてそのトンネルの前に立った時は、真夜中だったため、とても怖かったです。
照明がないので、なかは本当に真っ暗です。
僕は行きたくなかったですが、全員でトンネルに入る事になってしまい、仕方なく入りました。
でも、前の友達の背中すら見えないです。

本当に暗黒の闇で、春か前方に出口が小さく見える以外は何も見えないんです。
小幅にゆっくりと歩きますが、何も見えないため、頭を天井にぶつけるんじゃないかという気がしてきて、だんだんかがみ腰になって来ます。
それどころか、足下に人間の骸骨がいくつも転がっているんじゃないかという気までして来ます。
途中で恐怖のため、叫びたくなりましたが、それを必死にこらえて反対側まで抜けました。

このトンネルも、最初は本当に怖かったですが、慣れてしまうと何でもなくて、1人で簡単に歩けるようになります。
当時は携帯電話なんて無いし、誰も懐中電灯なんて持っていないので、本当に真っ暗なんですが、それでも慣れると平気になるんです。
なので、塾に新人が入ると必ずそこに連れて行き、1人で反対側まで歩かせるのがブームになりました。
やらされる方はたまったもんじゃ無いと思いますが、怖いのは最初だけで、みんなすぐに慣れてしまいます。

これがそのトンネルです。真夜中に一人ずつ入って行きました。

ある時、友達のPOSOが1人でトンネルに入って行く時、僕は悪い事を思いついてしまいました。
POSOがトンネルの真ん中まで入った頃を見計らって、打ち上げ花火をトンネルに向けて水平発射したんです。
花火はトンネルの中で爆発しましたが、その音が物凄く大きくて驚きました。
そしてトンネルからはもくもくと煙が出てきます。
打ち上げ花火って、こんなに煙が出るんだなあと思ったものでした。
しばらくすると、煙の中からPOSOが四つんばいで出てきました。
花火を打ったのは誰だ?という事になり、僕も同じ目に遭わされました。

トンネルの中にいると、打ち上げ花火の爆発音は本当にすさまじくて、鼓膜が破れるかと思う程でした。
しかも煙が凄くて、呼吸が出来なくなります。
あれはやられてみないと、どれほど酷い仕打ちか分からないと思います。
良い子は絶対に真似しないで下さい。

ちなみにPOSOとはその後、成田市体育館で何年か一緒に筋トレをしました。
先日もおよそ三年半振りにPOSOに対面し、成田市体育館でトレーニングをして来ました。
彼は本業は針灸マッサージ師ですが、副業で家事代行の人材派遣サービスや、結婚相談所も経営しています。
また、会員を集めてダイエットの指導もしています。
さらに彼は中学、高校、大学と10年間テニスをしていたので、無償で地元の子供たちにテニススクールで指導をしています。

真夜中は、本当に真っ暗です。

館山に行くなら、まず犬吠埼

学生時代のバイト仲間の1人、スガは館山に2DKの別荘を持っていたので、スガが塾に入ってきてからは、みんなで泊まりがけで館山に遊びに行くようになりました。
もちろん、別荘の所有者はスガ本人ではなく、お父さんです。
行けば大体3泊4日ぐらいして、昼は海、夜はマージャンと酒という生活をしていました。
とても楽しかったです。
千葉市から館山を目指すなら、まっすぐ南下するのが普通です。
あの当時はまだ館山自動車道がなかったので、館山まで行くのは半日がかりのドライブでした。
東京湾沿いに南下するか、太平洋沿いに南下していました。
今は高速道路が館山まで繋がっているので、わずか1時間半で行けてしまいます。
高速道路の力は偉大ですね。

でも、あの頃は、遠いからこそ館山が魅力的だったんだと思います。
すさまじいのは、館山に行くのに、毎回犬吠埼に寄ってから行っていた事です。
千葉市から千葉県南端の館山に行くのに、何故か千葉県最東端の犬吠埼に行ってから南下していました。
まさに時間とガソリンの無駄遣いですが、当時はそれが最高に楽しかったんです。
やっぱり、若いというのは素晴らしいですね。
何もなくてもただ仲間が集まるだけであんなに楽しかったんですからね。

当時の僕の愛車です。場所は犬吠埼ではありません。

地球の丸く見える丘展望館

犬吠埼に行くのはいつも真夜中でしたが、随分後になって昼間にも行くようになりました。
犬吠埼の灯台にも登りました。
僕は灯台には1回しか登った事がないですが、閉所恐怖症の人はやめておいた方が良いと思います。
エレベーターもなくて、ぐるぐると階段を登るんですが、窓もほとんどなくて、結構狭いです。
上まであがると見晴らしは良いんですが、犬吠埼では灯台よりも「地球の丸く見える丘展望館」の屋上の方が遥かに眺めが良いと思います。

初めてそこに行った時は、僕ともう1人のバイト仲間と、あと女子高生を3人連れていたと思います。
多分3人だったと思います。
塾で教えていた生徒達が高校に合格した後も、たまに塾に遊びに来る事があります。
そして、何かの拍子で今度みんなで犬吠埼に行こうという話になったんだと思います。
この話も日記をすべて読み返せば書いてあると思うんですが、1995年以前の日記は手書きなので、キーワード検索が出来ないんですよ。
1986年から1995年までの手書きの日記をすべて読み返すのは膨大な労力と時間を要するので、やめておきます。

その子達を連れて犬吠埼に行った時は、僕たちも初めての昼間の犬吠埼だったので、灯台に登ったのも、「地球の丸く見える丘展望館」に行ったのも初めてでした。
中に入るのに多少のお金がかかりますが、屋上に登ってみてびっくりです。
見渡す限り海で、視界のうち330度が海、陸は30度というような感じでした。
あの絶景は、言葉や写真で伝えるのは無理だと思います。
犬吠埼を訪れる事があったら、立ち寄る事をお勧めします。

2、3年前の事だったと思いますが、犬吠埼近くの千葉科学大学に、同じ職場の生物の先生がオープンキャンパスの授業をしに行くという話がありました。
千葉科学大学は、屏風ケ浦という有名な断崖のすぐ近くにあります。
僕はその先生に、犬吠埼に行くなら絶対に「地球の丸く見える丘展望館」に行くべきと薦めました。
灯台より絶対にいいから行くべきだと強力に薦めておいたんですが、あいにく当日は台風が来てしまいました。
なのに仕事は中止にならなかったそうで、その先生はマイカーで銚子まで仕事をしに行ったそうです。
果たして生徒は来たんでしょうか?
千葉科学大学の最寄り駅は、銚子電鉄の終点の外川という駅ですが、そこから歩くにしても17分程度かかるようです。
台風直撃の日に、果たして人は来たんでしょうか?

銚子有料道路

昔、今から30年ぐらい前、千葉市内から犬吠埼に向かう時は、国道126号線で行っていました。
そして、銚子有料道路を通って犬吠埼へアクセスしていました。
千葉から向かうと、126号から右折して銚子有料道路へ入りました。
その有料道路は、ところどころ海が見えてとてもドライブに適した道路でした。

何年か経過したら、料金所が撤廃されて、無料の道路になりました。
地球の丸く見える丘展望館にいくのに、有料道路を通らなければならなかったんですが、それが無料になって喜んだものでした。
思い出してみれば、犬吠埼には車だけでなく、バイクで行った事もありました。
バイクで走る銚子有料道路はとても快適でした。

昨日、久し振りにその道を走ってみましたが、やっぱりあそこは良いですね。
犬吠埼から千葉方面へ帰る時は、下り坂の正面に屏風ケ浦がくっきりと見えて、まさに絶景だと思います。
そして、その道路の名前が、「銚子ドーバーライン」となっていました。
いつからそうなったのかは知らないです。
ドーバー海峡のドーバーなんでしょう。
言われて見れば、その道路から見える屏風ケ浦はドーバー海峡に似ていなくもないです。
ドーバー海峡を見た事はないんですが。

昨日は、行きはこのドーバーラインを通りませんでした。
356号線で銚子駅まで出てから犬吠崎にアクセスしたので、通りませんでした。
でも、犬吠埼に行くなら、銚子ドーバーラインは通った方が良いと思いました。
昔は一部山道をくねくね曲がっていたんですが、山が切り崩されて直通する道路が作られ、走りやすくなっていました。

人生の岐路に立ったら犬吠埼

僕が大学生だったある年、千葉市穴川のジョナサンで深夜まで1人で勉強していました。
その時は熱力学の単位を取るべく、熱力学の勉強をしていました。
自宅だとすぐにさぼってしまうので、外で勉強していました。
大学を出たらどんな仕事につくのか?
予備校講師を目指すのか、それとも千葉県の地方公務員になって余暇を充実させるのか?
いろいろ考えた末に、残った選択肢はこの2つでした。

予備校講師というのはなるのも大変で、なった後もいつクビになるかわからない大変な仕事だと思っていました。
千葉県の地方公務員は、一生県外への転勤がなく、9時から5時まで働けば、残業もなく帰れるので、思う存分空手に専念出来ると思っていました。
ただし、東日本大震災の時の様子を見る限り、公務員が5時で帰れるというのは正しい認識ではないようです。

予備校講師を目指すのか、目指さないのか、これは随分考えました。
そして、その日は午前2時頃に勉強を切り上げて、家に帰らずに1人で犬吠埼へ向かいました。
往復の車の中でじっくりと自分の人生について考えてみたかったんです。
結局僕は予備校講師を目指す事を決め、母に相談しました。

鹿野一郎
鹿野一郎

予備校の採用試験に合格するのは並大抵の事ではない。
もちろん猛勉強するけれど、一発で合格出来ないかも知れない。
3年浪人してもどこにも受からなかったら諦めて千葉県の地方公務員になるから、予備校講師に挑戦させて欲しい。

と懇願しました。
母は大反対しました。
なぜ、普通に企業に就職しないのか?
大学の友達はみんな一流の電気メーカーや自動車メーカーに就職しているのに、どうしてわざわざ予備校講師なんていう危険な仕事を目指すのか?
母が言うのはもっともですが、もうバブル景気は崩壊しているし、そのうち年功序列も終身雇用も崩壊する。
ならば最初からそんなものは当てにしないで好きな事をやりたいと主張しました。
僕は満員電車で通勤するとか、果てしない残業とか、紙切れ一枚で転勤させられる生活は絶対にしたくないと言い張って、最後は母が折れてくれました。

大学を卒業する年、予備校の採用試験を4つ受けました。
そしてそのうち1つに合格したので、浪人せずに予備校講師になる事が出来ました。
教える事は学ぶ事だと言いますが、それは本当にその通りで、予備校の採用試験に合格するために勉強した事よりも、実際に教壇に立ってからの経験の方が遥かに力になりました。
もし、あの時、あの採用試験で全部不合格だったら、僕の人生はきっと、全く違うものになっていたと思います。

娘を連れて犬吠埼へ

妻と結婚して、娘が生まれました。
娘がまだ1歳の頃だったと思います。
娘は近所を散歩出来るようになっていて、よく僕が手を引いて歩いていました。
毎日同じコースだと飽きるので、たまに車で大きめの公園まで出掛けて娘を歩かせていました。
ある時、いつもと同じように近所の公園に行こうと思って運転席に座ったら、無性に犬吠埼に行きたくなって、自分を止められなくなりました。
迷わず犬吠埼を目指し、信号で止っている時に妻にメールでそのように知らせました。
妻は驚き、呆れていましたが、認めてくれました。
あれは東日本大震災の年だったと思います。
東日本大震災では千葉県は太平洋側の旭の街が津波で被害を受け、東京湾側の幕張や浦安が酷く液状化しました。
犬吠埼は津波の被害はありませんでしたが、でもあの津波のニュース映像が頭にこびりついていたので、海岸まで降りて行くのは怖かったです。

今、日記を検索してみたら、2011年の7月17日の日曜日でした。
娘はまだ1歳でしたが、この日はコンビニのおにぎりを食べてもらいました。
ちゃんと食べられたので安心したのを覚えています。

2011年7月17日に撮った写真です。パジャマのまま犬吠埼まで連れて行ってしまいました。

この翌年の2012年7月15日には妻、娘と3人で犬吠埼に行きました。
日記によると、駐車場が満車だったので、水族館の駐車場に止めたそうです。
水族館でお金を使わないと駐車料金がただにならないので、2階のレストランで海鮮丼を食べたと書いてありました。
でも今はその、犬吠埼マリンパークは倒産してしまって、建物が残っているだけになってしまいました。

果たして、また娘と犬吠埼に行く日は来るのでしょうか?
可能なら、地球の丸く見える丘展望館に連れて行きたいんですが、娘は富士急ハイランドにしか興味を示さないので、難しいと思います。

最後に

僕は犬吠埼が好きです。
初めて行ったのはおそらく20歳の時だったと思います。
あの時はまだ自分の車を持っていなかったので、バイト仲間の車で連れて行って貰いました。
初めて行った時のメンバーは3人でした。
僕は予備校講師になり、あの時車を出してくれた友達は塾の先生になり、もう1人は高校の先生になりました。
犬吠埼に一緒に行った友達は何人いるでしょうか?
少なく見積もっても10人はいます。
彼らも僕と同じように、今でも犬吠埼へ行っているんでしょうか?

昨日犬吠埼に行ったのは、家族3人で行って以来、およそ10年ぶりでした。
これまでの10年は、何をするにも家族一緒というのが前提だったので、なかなか自由に動けませんでした。
でも、もう春には娘も中学に上がるし、僕はこれまでより自由に行動出来るようになると思います。
おそらく犬吠埼に行く機会も今後は増えると思います。

たまには電車で行って見みたいですね。
その場合は千葉から特急に乗って銚子に出て、銚子から銚子電鉄に乗って犬吠駅で下車です。
駅から犬吠埼まではあるいて10分もかからないと思います。

今回はこんなところです。
ありがとうございました。

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