こんにちは、鹿野一郎です。
先日妻と共に、久し振りに佐倉市の岩名運動公園を訪れました。
12年振りの訪問でしたが、12年前は花見のために行き、桜の木があまりなかったので、すぐに別の場所に移動しました。
なので、僕にとっては事実上22年振りの訪問でした。
妻にとっては、実質的に初めての訪問でした。
様変わりした岩名運動公園
久し振りに行った岩名運動公園は随分と様変わりしていました。
まず陸上競技場の名前が変わっていました。
以前は岩名陸上競技場だったんですが、今は小出義雄記念陸上競技場になっています。
若い人の中ないは小出義雄監督を知らない人もいると思いますので、簡単に説明させてただきます。
1992年のバルセロナオリンピックの女子マラソンで銀メダルを取り、1996年のアトランタオリンピックでも銅メダルを取った有森裕子選手(積水化学:当時)と2000年のシドニーオリンピックの女子マラソンで金メダルを取った高橋尚子選手(積水化学:当時)を育てた名監督です。
小出監督は千葉県佐倉市の農家の息子として生まれました。
若い頃にはかなり紆余曲折があったそうですが、積水化学の女子陸上部の監督に就任し、地元佐倉に合宿所を作りました。
そのため、有森選手も高橋選手もよく佐倉で練習をしていたそうです。
その小出監督の名前が、陸上競技場の名前になっています。
他にも大きな変化がありました。
陸上競技場のすぐ隣に立派な野球場があり、長嶋茂雄記念岩名球場という名前になっていました。
この野球場は僕の記憶からは完全に消えていたんですが、僕の日記を読み返してみると、20年以上前、僕が岩名運動公園に行っていた時からその野球場はあったそうです。
ただの野球場ではなく、客席も立派で、スコアボードも立派で、照明設備も整っています。こんなに立派な野球場が記憶から消えているのが不思議でならなかったです。
それで、調べてみたら謎が解けました。
昔と今では野球場が全く別の姿になっていたんです。
この野球場は昔はなかったはずだ、という僕の感想は間違っていなかったんです。
岩名運動公園第一野球場は1974年にオープンしたそうです。
そして2016年に施設改修工事を実施したそうです。
2017年には長嶋茂雄記念岩名球場と名前を変更したそうです。
しかも新球場のこけら落としでは、巨人とロッテの2軍の試合が行われたそうです。
これがこの野球場での初めてのプロ野球の試合だったそうです。
この試合の始球式では長嶋茂雄終身名誉監督が打席に立たれたそうです。
そして試合前には地元出身で歌手の荻野目洋子さんが国歌斉唱をされたそうです。
僕は若い頃、荻野目洋子さんの歌は好きでしたが、まさか佐倉出身とは知りませんでした。
僕が岩名運動公園にちょくちょく行っていたのは1997年から1999年にかけてです。
この当時の野球場の姿はわかりませんが、おそらくスコアボードはもっと貧弱で、客席もおそらく空き地で、ナイター用の照明はなかったんじゃないかと思います。
今のような立派な姿だったら、記憶から丸ごと消えるはずがないと思うからです。
岩名野球場のリニューアルの日
それにしても岩名運動公園でそれだけの大きなイベントが開からたなら、何故地元の僕は何も知らなかったんでしょうか?
このイベントが開かれたのは2017年6月4日だそうです。
一体僕はこの日、何をしていたのかと日記を読み返してみたら、その日は千葉ニュータウンの花の丘公園というところに行っていました。
その日、ミルクフェスティバルというイベントがあったので、それを目当てに出掛けたんです。
でも、僕たちがついた時にはミルクはすべて売り切れていて、空振りに終わってしまいました。
妻と娘がトイレに行っている時に、見覚えのあるごつい人から、
天台でトレーニングしていませんか?
と声をかけられました。
その人は、天台スポーツセンターのトレーニングルームでたまに見かける人でした。
お互いに自己紹介すると、その人はウエイトリフティングをしていると言います。
その日、その公園に行ったのは、筋肉系ユーチューバーのサイヤマングレートさんのステージを見るためだと言っていました。
僕は歳やマングレートさんのイベントは新聞のチラシで見て知っていましたが、当時は全く興味がなかったので、適当に話を合わせていました。
その方によると、生で見るサイヤマングレートさんはやっぱりすごい体をしていたそうです。
特に腹筋がすごいと言っていました。
ユーチューバーも、YouTube以外にこういうステージなどのイベントに顔を出して、結構忙しいんだなと思ったものでした。
それから時が流れて、今では僕に取ってはサイヤマングレートさんは、最も好きな筋肉系ユーチューバーです。
彼の今年の活躍は本当にすごかったです。
彼なら来年もきっとやってくれると思います。
彼の頑張りを見て、僕も頑張りたいと思います。
今、つくづく思うんですが、千葉ニュータウンの花の丘公園で開催されるミルクフェスティバルを新聞の折り込みチラシで知っていたのに、同じ日に岩名運動公園で長嶋茂雄終身名誉監督まで駆けつける、佐倉史上初のプロ野球の試合のイベントを知らないとは、どういう事なんでしょうか?
いくらプロ野球に興味がないと言っても、限度があるんじゃないでしょうか?
昔の話になりますが、学生時代、友達数人と、千葉から長崎まで車で旅行に行ったことがありました。
その時、長崎で異常なほどにすごい渋滞を見ました。
僕は長崎には何度も行ったことがありましたが、そんなにすごい渋滞はあの時が最初で最後です。
おそらく何千台もの車がつながっていたと思います。
一体何があるんだろう?と思ったら、その日は長崎県史上初のプロ野球の公式戦が開催される日だったんです。
それが渋滞の原因でした。
正確な日付は調べればわかると思いますが、今はちょっとそこまで気力がないので、また今度にします。
学生の頃は鉛筆でノートに日記を書いていたので、キーワード検索で日付を特定することはできません。
長崎県初のプロ野球公式戦の日付をインターネットで調べてれば、その日の日記を読むことは簡単にできます。
また、今度暇のある時にやりたいと思います。
そして、暇ができる前に忘れてしまって、結局調べないと思います。
増田明美選手のお陰でランニングが出来るようになり、高橋尚子選手の影響でフルマラソンに出場することになりました
僕は1997年から1999年まで3年連続で佐倉朝日健康マラソンに出ました。
1997年は36km地点でリタイアし、1998年は29km地点でリタイアしました。
そして1999年に初めて完走できました。
この頃はマラソンに凝っていて、他に東京荒川マラソン(フルマラソン)、成田ポップラン(ハーフマラソン)、庄和町大凧ハーフマラソン、谷川真理ハーフマラソンなどに出場していました。
僕がマラソンに出るようになったは、増田明美選手と高橋尚子選手の影響です。
ちょっとその辺の話をさせてください。
僕は中学時代は猫背のデブで、いつも鼻が詰まっていて、運動は大嫌いでした。
高校時代は勉強はよくするようになりましたが、相変わらず運動は大嫌いでした。
1983年1月の大阪国際女子マラソンを母が楽しみにしていたので、なんとなく僕も一緒に見ることになりました。
その試合に増田明美選手が出場するので、母は楽しみにしていたんです。
増田明美選手は高校時代に彗星のように現れて、陸上長距離種目の日本記録をことごとく塗り替えたスーパースターでした。
でも1982年の大阪国際女子マラソンのレース中に倒れて、そのまま救急搬送されるというアクシデントがありました。
それから1年が経過し、復活のレースが、翌年のロス・アンゼルスオリンピックの代表選考を兼ねたレースだったので、世間の注目もかなり集まっていたと思います。
僕は運動大嫌いで、マラソンなんて最も嫌いなものだったので、全く知らなかったんですが、レースを見て度肝を抜かれました。
僕はこのレースではじめて増田明美選手の姿を見ましたが、あんなにちっちゃいとは思っていませんでした。
レースが始まり、去年倒れた15.3km地点に差し掛かると、増田選手は両方の手袋をそこで外して道路に投げ捨て、まるでそれが合図でもあるかのように猛烈なスパートをかけて独走状態に入りました。
なんという強い人なんだろうか!そういう驚きがありました。
それに対して僕は体育の授業で、先生から「グラウンド2周!」と言われるだけで心臓がズシーンと重くなるほど、走るのが嫌いでした。
あんなにちっちゃい人があんなにすごい走りをしているのに、自分はなんなんだ!と思うようになりました。
この日から僕は毎晩走るようになりました。
若かったので、雨が降っても雪が降っても毎日走りました。
高校1年の時のクロスカントリー大会は、学年で350番ぐらいでしたが、高校2年の時には43位まで順位を上げることができました。
僕は増田選手のあのレースを見て、ランニングができる人間になることができました。
そして実際にフルマラソンにエントリーするきっかけをくれたのは高橋尚子選手でした。
1998年のバンコクでのアジア大会のレースを見て、僕は「自分もフルマラソンを走る!」と決意しました。
バンコクはとても暑く、気温32度、湿度90%という悪条件でしたが、高橋選手は猛烈な走りを見せ、日本記録を4分も短縮して優勝しました。
最初から最後まで独走でした。
これでとうとう僕はフルマラソンに出ることを決めたんです。
初マラソンは1997年の佐倉朝日健康マラソンでした。
36km地点で足が痛くて動けなくなり、救護車に回収されてリタイアしました。
そして翌年2回目の挑戦をしました。
この時の僕の体重は80kgぐらいで、年齢は31歳でした。
ちなみに身長は164cmです。
あの時の体型は、デブと言われても仕方ない体型でした。
1998年の佐倉朝日健康マラソン
1998年3月1日のレースの様子は当時の日記に詳しく書いてあるので、ちょっと長いですが、引用します。
昨日のマラソンは最悪のコンディションで臨むことになった。
結果は29km地点リタイアだ。
去年は36km地点でリタイアだったので去年より悪い結果ということになるが、結果には半分以上満足している。28日の夜は目が冴えて全く眠れなかった。
4時間昼寝したこともあったが、緊張で眠れなかったという要素もあったかも知れない。
外は風が強く、一晩中窓ガラスがガタガタ言っていた。
5時半に寝ることを断念して布団から出た。
徹夜明けのランニングは非常にきつい。
高校時代の全盛期ですら徹夜明けに5.4kmのコースを完走したことはない。
もう出場するのは無理かも知れないと思った。
風邪の具合は良くならず、咳もタンも止まらなかった。
食事をしていると雨が降り始めた。
風はおさまったが、雨は強く降り出した。
天気予報では午前中は雨、午後はくもりということだった。
天気予報の通りならスタート時は雨だが、ゴールする頃には雨は上がっているはずだった。
風呂に入って出発の準備をして家を出た。
出場するしないに関わらずとりあえず会場までは行こうと思ったのだ。
京成佐倉駅は去年に比べて非常にランナーの姿が少なかった。
送迎バスも待たずに乗れた。
会場について受け付けを済ませたのが8時だった。
スタートまで2時間もある。
「男子更衣室」と書かれた大きなテントがあったのでそこで雨宿りをした。
下は芝生でしかも雨で濡れていたのでSATYの買い物袋を置いてその上に座った。
9時半までやる事もなくただ座り続けた。
だんだん人が増えてきたので動くと自分の居場所が奪われてしまいそうで座り続けるしかなかった。
9時半にテントを出てトイレに行った。
雨はいつのまにか雪に変わっていた。
外は恐ろしいまでの寒さだった。
風邪を引いている事もあり、ずっと外にいた事もあり本当に寒かった。
トイレの後、手荷物を預けてウォーミングアップをするつもりだったが、トイレにいるときに悪天候のためスタートを1時間遅らせるというアナウンスがあった。
選手一同は一斉にブーイングを発した。
居場所を失った僕はあと1時間トイレにいるしかなかった。
トイレはテントより暖かかった。
スタートが1時間遅れると聞いて帰った人もいたが、僕は帰らなかった。
帰りたい気持ちでいっぱいだったが、帰りたい原因を考えると風邪の症状が重いからではなく、徹夜で眠かった訳でもなかったからだ。
雪が降っているのはいやだったが、もっとも走りたくないと思わせる原因は寒さだったのだ。
寒いから走らないというのはまったく理由にならない。だから僕は走ることにした。
ジャージの下にもう一枚トレーナーを着てくれば良かったとつくづく思った。
さらに雨に対応できるようにウインドブレーカーを上下セットで持っていれば良かったと思った。
今後同じ事が起こる可能性は充分あるので必要な物はそろえるようにしよう。
さらにスポーツ用のコートもあった方が良い。
今日は待っている間、ジャージの上に革ジャンを来ていたが、スポーツ用のコートはまさに打ってつけなので来年までには買うことにしよう。10時40分。僕はトイレを出て手荷物預かり所に行った。
そこで革ジャンを脱いでスポーツバッグに入れ、傘をたたんで預けた。雪は激しく降っていた。
革ジャンを取られた僕はあまりの寒さに気が狂いそうになった。
スタートラインについてわかったが、今年の参加人数は去年の3分の1くらいしかいなかった。
去年と違って仮装して出場する人もいない。
また、スタート時にヘリコプターが来る事もない。
去年の大会は楽しめる部分がかなりあったが、今年は苦しいだけの大会になった。11時。ようやくスタートした。
風邪を引いていることも、徹夜したという事も信じられないくらい影響がなかった。
初めの6.5kmは40分かかった。
普段より5分遅いペースだ。
ペースが遅い分には問題がないのであまり気にしなかったが、やはり体調は良くなかったようだ。
農道を走っているとき、周りはたんぼだけで風をさえぎる物が何もなかったので非常に風が強かった。
僕はあまりの寒さにうめき声を上げながら首を丸めて下を向いて走った。
いつ頃だったか覚えていないが、雪は雨に変わった。
10km地点の立体交差を通過したのはスタートしてからちょうど1時間後だった。
11.2km地点の登り坂は去年の苦しみが嘘のように軽々と登れた。
去年はその坂でリタイアしそうになるくらい苦しかった。
気持ちは登ろうとしているのだが、足がだんだん上がらなくなり走っているのか歩いているのかわからなくなっていったのを覚えている。
しかし、今年は本当の軽々と登り、その坂だけで5人から8人くらい抜いた。
坂を上ると木に囲まれた道に出るので風はほとんどなかった。
そこで僕は体が軽くなり、それまでの苦しみが嘘のように楽しい気分になれた。
別に飛ばしているつもりはなかったが、普通に走っているだけで前の人をどんどん抜いていった。
数えていた訳ではないが、おそらく30人から40人は抜いたのではないか?
草笛の丘の給水所や、双子橋の手前の公衆トイレに立ち寄ってコースをそれる人もあわせれば60人以上抜いただろう。
双子橋を渡ったあたりで足が重くなりだした。
それは去年と同じだ。
去年も双子橋を渡ったとたんに足がダメになり、18.5km地点の給水所で終わったのだ。
双子橋を渡ったあとゆっくり走ることにした。
とにかく給水所に行こうと思った。
給水所に行ってもどうせ水は飲まない。
雨が降っているのでその必要がないのだ。
しかし、パンが貰える。パンが貰えるということを褒美として自分を頑張らせることにした。
双子橋から給水所までは結構遠かった。
走っている間に考えた。
コンディションが非常に悪い割には去年より良く走れている。
去年の自分は本当に体力がなかったのだ。
風邪を引いていて徹夜明けで雨の中を走っている今の自分よりダメだったのだからそう思うのも当然だ。
18.5kmの給水所では走ったままパンを3つ貰って通過した。
止まろうという気持ちは全くなかった。
しかし、結構苦しくなっていたのでこの後はペースの事は気にせず「歩かなければいい。」という気持ちで走った。
20km地点を通過したのはスタートから調度2時間後だった。
その頃からペースが露骨に落ちて、僕は抜かれ始めた。
走ることが楽しくなくなり、ただ苦しいだけになった。
何がなんでも船戸大橋までは行きたかった。
去年は18.5kmの給水所で止まってから、歩いたり走ったりを繰り返したが、いつまで経っても船戸大橋に出なかったので、途中で「一体いつになったら橋に出るんだ!!」とヤケを起こしたのを覚えている。
今年はスペクトロン(という車)での計測で各区間の距離がわかっている分だけ去年より精神的に楽に走れた。
「あと3kmで橋に出る。」と思えるだけでも大分楽になったはずだ。
船戸大橋に出たときはかなり限界に近い状況だった。
船戸大橋までは景色が変わらず単調な道だったが、そこからは町中を走るので25kmの給水所までは精神的に楽に走れる。
だからこととりあえず25km地点までは行こうと思えた。
足が非常に重く、ペースも遅かったが、「止まったら終わりだ。」という気持ちが強かったので走り続けた。
もし、雨が降っておらず気温がもっと高かったなら途中で歩いてしまっても、去年のように歩いたり走ったりを繰り返してゴールまで行かれるだろうが、この寒さを雨では歩いている間に風邪が悪化し、場合によっては途中で倒れてしまうかも知れなかった。
だからゴールまで走り通すか、リタイアするときも救護車が来たときにリタイアするしかないと思っていた。24.5km地点。給水所ではスポーツドリンクを取って通過した。
喉が少し渇いていたからだ。
意識の上では走っていたが、もしかしたら競歩に変わっていたかも知れない。
足が本当に上がらなくなっていた。
ペースも遅くどんどん抜かれ続けた。
25km地点を通過したのはスタートから2時間35分後だった。
この間走ったときは26kmを2時間26分で走ったのでかなりペースは悪いと言える。
しかし、コンディションが最悪だったので問題にはしない。
京成の線路沿いに走っていくのだが、途中でコースが変わっていた。
踏切の所を左折し、印旛沼のすぐ脇の通りに出るのだ。
その道を行くと風車のすぐ脇を通り、橋に出るのだ。
ゴールするとき、去年のコースでは競技場を1周以上走ることになっていたが、今年は半周しかしないのが不思議だったが、原因が分かった。風車の脇を通るときの僕は完全にグロッキーになっていて、もはや走っているとは言えないような状況だったろう。
頭の中には28km地点の坂道があった。
そこを登れるかどうかが問題となっていたからだ。
そこを登り切れば計算上は32kmから36km地点までは走れるはずだった。
しかし、もし坂を上りきったとしても、もうそれ以上走れないだろうという気持ちがあった。
非常に苦しかったが、去年と違って精神活動は停止していなかった。
ちゃんと思考回路も作動していた。
それだけでも状況は去年よりましだと言える。
28km地点の坂道にさしかかった。
意識の上では走っているのだが、どんどんペースが下がり、ランニングから競歩に変わり、さらにペースは下がった。
去年の11.2km地点の坂道と同じ状況だ。
去年はその坂を上りきってから7km走ってリタイアした。
同様に考えれば今年もその坂を上りきればあと7km走れたのかも知れない。
確かにその坂を越えればしばらく平坦な道と下り坂しかないのだ。
その坂から2km先に、11.2km地点の登り坂が今度は31km地点の下り坂となって待ちかまえている。
下り坂は疲れていても走れる。その坂を下りると1.2km先に32km地点の立体交差がある。
コンディションが普通だったら計画通りにそこまで走れたような気がする。28km地点の坂はコースの変更によっておそらく28.5km地点くらいになっていただろう。
坂を上っているとき本当に苦しく、歯を食いしばりうめき声を上げながら気力だけで登っていた。
しかし、坂は長く、ペースは遅かったのでいつまで経っても頂上付近が近づいてこなかった。
「くそう!!」と思い、悔しくなってきた。
泣きたいくらい苦しかった。
そのころ前を行く人々がどんどん歩き始めたので、僕もついにギブアップしてしまった。
自分としては限界まで走ったつもりだ。
走っているのか歩いているのかわからなくなってから5kmも走ったことについては充分頑張ったと言えるだろう。その坂を上ると競技場の照明が森の向こうに見える。
あと2時間で12km行けば完走ということになる。
雨が降っておらず、気温がもう少し高ければほぼ確実に完走できただろう。
コンディションが普通ならなおさら完走できたはずだ。
それだけで満足している。スタートから3時間で29km地点まで行けたのだ。
去年はスタートから4時間47分後に36km地点でリタイアした。
距離は今年の方が少ないが、内容は今年の方が遥かに良い。つきがなかっただけなのだ。僕はゼッケンをはずしてコースをそれ、競技場まで歩いていった。
競技場には2時半に着いた。ギブアップしてから30分後だ。
競技場で熱いコンソメスープを配っていたので、それを飲んでから手荷物預かり所で荷物を受け取り、トイレで着替えた。
非常に疲れていたので着替えるのにかなり長い時間がかかったような気がする。
久し振りのこの日記を読み返してみましたが、昔の僕は根性があったんだなと思いました。
今だったら絶対にこんなに頑張らないです。
徹夜した段階で欠場しているでしょう。
この日、当日の頑張りは100点だと思っていますが、マラソンの当日までのトレーニングはどうだったのかというと、満点には程遠いと思います。
長期的に計画的なトレーニングを積んだとは言えず、その日その日の気分で走る距離を決めていました。
本当に目標を達成するんだったら、もっと長期的、計画的な練習をするべきでした。
しかも、前の日に4時間も昼寝をして一睡もできなくなったというのは、あまりにもずさんです。
当日の頑張りは認めますが、あまりにも無計画だったと思います。
つまり、若い頃の僕は根性だけで物事にあたっていたようです。
でも、マラソンに出場したのはとても大きな、大切な思い出です。
今はパワーリフティングに燃えていますが、パワーリフティングよりもマラソンの方がきついと思います。
42.195kmを走りきるんですから、楽じゃないですよね。
可能ならまた出てみたいとも思いますが、多分難しいと思います。
随分前からですが、軽いジョギングをしても3kmを過ぎたあたりから必ず左のふくらはぎに痛みが出るようになってしまっているからです。
この痛みがなくならない限り、長距離を走るのは難しいと思います。
初めの頃は、ふくらはぎの筋力が足りないことが原因ではないかと思い、カーフレイズなどで鍛えてみましたが、一向に治る気配はありませんでした。
だから、再びマラソンに出ることは、半ば諦めています。
今回はこんなところです。
ありがとうございました。