こんにちは、鹿野一郎です。
今日は2024年3月3日の日曜日です。
昨日、ジムに行ってベンチプレスとデッドリフトをやってきました。
ベンチプレスは良かったんですが、デッドリフトは何故か力が出ませんでした。
後になって、それは軽い怪我をしたからだとわかりました。
昨日のベンチプレス
ベンチプレスは90kgで5セットやって、8回、7回、6回、6回、5回で合計32回でした。
前回は同じ90kgで7回、7回、5回、5回、5回で合計29回だったので、少しマシになりました。
次の試合まで2ヶ月と9日なので、およそ2週間ごとに2.5kgずつ負荷を足して行って、試合前には100kgでやるように持って行きたいです。
ベンチプレスを100kgで連続で挙げた自己記録は7回ですが、去年は最高で4回しか挙げられませんでした。
この4回の記録は確実に超えたいです。
そして目標は5月12日のパワーリフティング千葉県大会(ジュニア・アンド・マスターズ)で110kgを成功させる事です。
僕はここのところ、2年以上ベンチプレスで低迷しています。
試合でベンチプレスの110kgに挑戦したことは何度もありますが、これまでの結果は以下のようになっています。
2017年4月 パワーリフティング千葉県大会
第2試技と第3試技で、下ろしたらそのまま潰れて失敗。
2019年4月 パワーリフティング千葉県大会第3試技で、下ろしたらそのまま潰れて失敗。
2020年9月 パワーリフティング千葉県大会第3試技で、下ろしたらそのまま潰れて失敗。
2021年10月 パワーリフティング千葉県大会第2試技と第3試技で、上まで押し上げたものの判定で失敗。
2021年12月 ベンチプレス栃木県大会第2試技で、上まで押し上げたものの判定で失敗。
第3試技は下ろしたらそのまま潰れて失敗。
2022年5月 パワーリフティング千葉県大会第3試技で、下ろしたらそのまま潰れて失敗。
これまで110kgのベンチプレスに、74kg級で試合に出て成功させたことは一度もありません。
(2005年にベンチプレス千葉県大会に出たときは、当時の82kg級で110kgを成功させていますが)
2021年の10月になって初めて110kgのバーベルを胸で1秒静止させた後、押し上げる事が出来ました。
2021年の12月にも110kgを押し上げていますが、成功にはなりませんでした。
で、その後、ずっとベンチプレスは低迷していました。
もうあれから2年と3ヶ月が経過しました。
この間何をやっていたのかというと、思い出せるのは2つのケガと、グリップ幅の変更です。
2022年5月の試合の時は、怪我を押しての試合でした。
確か右肩を怪我して力が入らない状況だったと思います。
それでもなんとか105kgの記録を残す事が出来たので、自分では頑張ったと思っています。
この怪我が治った後、怪我をしないようにフォームを改善しました。
バーベルを握るグリップ幅が広すぎることが肩の怪我につながっているのだろうと考えて、グリップ幅を狭くしました。
81cmラインに人差し指が乗る握り方から、小指が乗る握り方に変えました。
このおかげでその後、肩の怪我はなくなりましたが、使用重量が落ちて、いつまで経っても回復しませんでした。
およそ1年半にわたってこのグリップ幅でベンチプレスをしていましたが、どうやっても記録が伸びず、頭打ちでした。
そして去年の10月から首の関節が腕に伸びる神経を圧迫して力が入らなくなってしまいました。
一時、75kgが4回しか挙げられなくなるほど力が落ちましたが、最近回復してきました。
75kg10回3セットから初めて、77.5kg、80kg、82.5kg、85kg、87.5kg、90kgと重量を増やして来ました。
このまま順調に重量を伸ばして、今度こそ110kgを成功させたいです。
今まで長期間ベンチプレスで低迷して来たのには色々な理由がありますが、最大の理由は、結局のところはトレーニング不足だったのだと思います。
去年2023年はベンチプレスの年間ボリュームが145トンを超えて、過去最高になりました。
2022年は年間131トンで、2021年は年間132トンでした。
132トンというと、全て100kgのバーベルを挙げたとすると、1320本です。
1週間あたり25本です。
確かに少ないですね。
それに対して今年は今日の時点で53.7トンに達しています。
過去最高だった2023年の年間ボリュームの37パーセントに相当します。
今年に入って9週間で53.7トンなので、1週間あたり5.96トンで、100kgのバーベルだと週およそ60本に相当します。
まだ少ないと思いますが、去年までより大幅に増えています。
結局はこれが最大の原因なのかも知れないです。
やれば強くなり、やらなければ弱くなる。
それだけのことなのかも知れないです。
昨日のデッドリフト
昨日のデッドリフトは以下の内容でした。
1周目 160kg5回、175kg2回、190kg0回
2周目 160kg5回、175kg1回
これで終わってしまいました。
これは明らかに先週より悪いです。
先週の内容は下のような感じでした。
1周目 160kg5回、175kg3回、190kg1回
2周目 160kg5回、175kg3回、190kg0回
なので、昨日は2週目の190kgも引き上げて、3周目に進むつもりでいました。
でも、予想に反して1周目の175kgが2回しかあがりませんでした。
そしてその次の190kgはびくともしませんでした。
先週は上がったのにです。
ちょっと暗い気持ちになりました。
もしかしたら体に疲れが溜まっているのかも?と思いましたが、それはおそらくないです。
特に理由が見当たらなかったけれど、投げ出すわけにもいかないので、こういう日もあるさと自分をなだめました。
でも、2周目の175kgを引き上げた時に、はっきりと左の大腿二頭筋の付け根に痛みを感じました。
上の付け根です。
原因はこれでした。
考えてみれば先週、190kgを挙げた翌日もやたらと左の大腿二頭筋が痛かったです。
随分と局所的な筋肉痛になったなと思ったんですが、どうやら軽く怪我をしていたらしいです。
それが先週の日曜日のことですが、火曜日はなんの問題もなくスクワットが出来ていました。
でも、今日のデッドリフトではっきりと痛みを自覚しました。
怪我をしていたんです。
力が出なかったのは、この怪我のせいで踏ん張りが効かなかったからでしょう。
2周目の175kgを1回でやめた後、当然190kgに挑戦するはずはありません。
ならばあとは軽く160kgを5回やって終わりにしようと思いました。
バーベルを175kgから160kgに組み直して、腰にパワーベルトを締めて、両手首にリストストラップをつけて、リストストラップをバーベルシャフトに巻き付けます。
バーベルを掴んでさあここから、という時に、やっぱり辞めることにしました。
無理をして怪我を悪化されたら仕方ないと思ったかです。
なので、そのままバーベルを放して、解体しました。
来週は軽めのデッドリフトで抑えるつもりです。
今考えているのは160kg3回の5セットで終わりにしようと思っています。
全く何もやらないと、体がフォームを忘れてしまうので、軽くても良いからやろうと思っています。
忘れるというのは、100パーセント全て忘れるという意味ではなく、100が95になってしまうかも知れないという意味です。
デッドリフトはベンチプレス、スクワット以上にフォームが重要だと思うので、休むときにゼロにはしないで少しはやった方が良いのではないかと思っています。
正直この怪我は呪わしいです。
これがなければ試合ではおそらく190kgは成功させる事が出来たでしょう。
もちろんまだ諦めていませんが、怪我のせいでだいぶ遠回りになることは間違い無いです。
試合までまだ2ヶ月以上あるので、怪我の回復に2週間かかっても大丈夫でしょう。
1ヶ月かかったとしてもギリギリ間に合うと思うので、諦めるつもりはないです。
今は火曜日にちゃんとスクワットが出来るかどうかが心配です。
50歳を過ぎているので、怪我をするのは当然のことと受け止めなければいけないですねよ。
記録が伸びないのを怪我のせいにしていたら話にならないです。
千葉県大会でマスターズの74kg級に出ている人々を見ていると、大体500kgの大台を達成したか、あとちょっとのところで大きな怪我をしてしまって長期間試合から離脱する人が多いです。
僕はまだ自己ベストが455kgなので、そのレベルに到達していません。
もちろん到達できたとしても大きな怪我はしたくありません。
だから怪我については常に慎重に対応し、決して自分を過信しないことが大切だと思っています。
それにしてもデッドリフトで大腿二頭筋を痛めたのは初めてです。
これまではデッドリフトで怪我というと、腰だったんですけどね。
試合ではこれまでデッドリフトで190kgに何度も挑戦し、一度も床から離れた事がないので、今度こそ引っこ抜きたいです。
津田沼のイトーヨーカ堂が閉店しますね。
2023年の2月に津田沼のパルコが閉店しました。
これは結構大きなニュースになり、閉店間際には、JR津田沼駅の表記が、津田沼パルコ駅とされてしまうほどの盛り上がりを見せました。
そして今度は、2024年の秋に津田沼のイトーヨーカ堂が閉鎖されるそうです。
津田沼もすっかり寂しくなってしまいますね。
津田沼というのは千葉県の地名で、総武線の駅に津田沼駅があります。
総武線の快速で津田沼から東京方面に向かうと、津田沼、船橋、市川、新小岩、錦糸町、馬喰町、新日本橋、東京となります。
東京駅からは快速で30分ぐらいの位置にあります。
千葉県では津田沼というと、千葉、船橋、柏と同等レベルの大都市に該当すると思います。
津田沼から快速で千葉方面に向かうと、津田沼、稲毛、千葉ですが、成田線直通電車だとさらに都賀、四街道、佐倉、成田、空港第2ビル、成田空港と続きます。
津田沼駅の近くに新京成電鉄の新津田沼駅があり、朝は新京成沿線に住んでいる人が東京方面に向かうために、大量に新津田沼からJR’津田沼駅に乗り換えます。
イトーヨーカ堂はこの新津田沼駅に直結する形で立っています。
僕は昭和42年に東京都品川区に生まれましたが、昭和53年から千葉県民です。
初めて千葉の家に行った時は総武線を津田沼駅で降りて、新京成電鉄に乗り換えました。
あの当時の津田沼駅はまだJR津田沼駅ではなくて、国鉄津田沼駅でしたね。
国鉄(日本国有鉄道)が民営化されてJR(Japan Railways)になったのは僕が大学生の頃でした。
昭和53年当時の津田沼は子供には怖いところでした。
夜店や屋台で使う資材がびっしりと駅前に置いてあって、とても寂れた雰囲気を感じました。
その辺に浮浪者が寝ていても何も不思議ではない雰囲気があり、子供の頃は津田沼は怖いところだと思っていました。
ちょうど津田沼のパルコやイトーヨーカドーがオープンする頃でした。
あの頃の津田沼は完全に田舎でした。
津田沼駅の北側は(陸側)、パルコがオープンしてまだ開発が進んでいましたが、南側(海側)は一面畑でした。
今、津田沼駅の南側にはザ・タワーという超高層タワーマンションが建っていますが、あれが出来たのはこの数年のことで、その前はあそこは広大な駐輪場、駐車場でした。
津田沼駅の南側には奏での杜(かなでのもり)という綺麗な街があります。
奏での杜が出来たのは10年ぐらい前でしょうか?
一戸建て、マンション、商業店舗、公園からなる綺麗な街ですが、昭和53年はあの辺はすべて畑でした。
強い風が吹くと土が巻き上げられて空が茶色になったものでした。
駅の南側には今はユザワヤ、マルゼン、駿台予備学校、ホテルメッツがありますが、昔はすべて存在せず、畑でした。
僕が高校に入学する時に津田沼に代々木ゼミナールの津田沼校が出来ましたが、代ゼミが津田沼から撤退し、今はその建物が駿台予備学校になっています。
駅の南側には千葉工業大学がありますが、これは昭和53年に僕が初めて津田沼に行った時からありました。
でも、今のようなツインタワーは存在せず、とても古くて汚い、背の低い校舎があるばかりでした。
僕が小学校を卒業する前に、駅の南側にダイエーが出来ました。
ダイエーはその後、サンペデックと名前を変えて、エキゾチックタウンという名称にもなり、潰れました。
今はモリシアという名前になっています。
駅から見るとモリシアの後方には河合塾という予備校がありますが、僕が浪人している頃はこの建物は研数学館という別の予備校でした。
研数学館が倒産したため、名古屋から東京に進出してきた河合塾がそこに入りました。
ちなみに研数学館ができる前は畑でした。
駅の北側(陸側)の話をしましょう。
当時はイトーヨーカドーがオープンしたばかりで、イオンはありませんでした。
今イオンがある場所は空き地だったと思います。
今のイオンがある場所に、大昔は人工スキー場がありました。
先日職場でこの話をしたら、みんなザウスのことだと勘違いしていましたが、南船橋にあったザウスとは別に、津田沼にも小さな人工スキー場があったんです。
スキーイング・イン・津田沼という名前でしたが、僕は一回も行ったことはありません。
南船橋にあったザウスには4回行った事があります。
日記を調べてみたらいずれも2000年の事でした。
ザウスは当時としては世界で一番広い屋内人工スキー場でしたが、バブルの崩壊とともに崩壊し、今は取り壊されて同じ場所にイケア建っています。
ザウスは室内がマイナス3度で、本物の雪を使っていましたが、スキーイング・イン・津田沼は室内の温度は常温で、高分子ポリマーの雪を使っていたそうです。
ザウスの中には温水プールもありましたが、それはすぐに閉鎖されてしまったため、ザウスに行った事がある人ですら、温水プールの存在を知らない人は多かったです。
イトーヨーカドーの隣には現在ミーナという商業ビルがありますが、昔はそれはマルイでした。
駅から見ると、ミーナと同じ並びでもっと駅に近いところにピンク色のビルがあります。
中にはパチンコ屋、飲み屋が入っていますが、昔はあそこは大塚家具でした。
新京成電鉄はあの当時は、新津田沼と京成津田沼の間は単線でした。
津田沼駅のペデストリアンデッキがいつ出来たのか、正確には覚えていませんが、僕が高校生になった時にはすでにあったので、昭和57年には出来ていたと思います。
あのペデストリアンデッキが出来た事で、それまで駅前に大量に放置されていた、出店、夜店の資材が撤去されて、津田沼のイメージは一気にクリーンになりました。
それまでは怖くて近寄りがたい街でしたが、ペデストリアンデッキの完成とともに、少しお洒落な雰囲気が出てきました。
おそらくバス停ば整備されて、バスが発着するようになったのも、あのペデストリアンデッキが出来てからではないかと思います。
僕は浪人時代は津田沼の代々木ゼミナールに通っていました。
今駿台予備学校になっているのは代々木ゼミナールのA館という古い校舎でした。
僕が浪人する年に総武線の線路のすぐ脇にB館という新しい校舎ができたんですが、今ではそのB館は解体されて、跡形もなくなっています。
駅からB館に行く時に、大原簿記法律学校の前を通りますが、確かこの学校はずっと昔からあったと思います。
大学は飯田橋だったので、毎日津田沼で乗り換えて大学に通っていました。
津田沼から飯田橋までは総武線の各駅停車で1本で行けます。
時間は45分ぐらいでしょうか?
予備校で働くようになってからも、津田沼は乗り換えでよく使っていました。
そして今は僕が勤めている予備校の校舎が津田沼にもあるので、津田沼でも仕事をしています。
昔は本当に畑だらけだったんですが、40年以上の歳月を経て随分と街として成長したと思います。
似たような話は他にいくらでもあります。
千葉ニュータウンは千葉県印西市にある巨大な街ですが、昭和53年に僕が千葉県に移り住んだときは一面原野でした。
道路が1本あるだけで、しかもその道路もまだ開通していませんでした。
今でいう国道464号線ですが、あの当時は開通していませんでした。
JR佐倉駅近くの寺崎地区も同じようなものです。
あそこも一面原野だったんですが、ある日一本の道路が出来ました。
ずっと1本の道で、鹿島川を橋で渡って、延々と道が続いていました。
臼井のあたりから国道51号まで繋がる一本の道が原野を走っていました。
この道路は何のために作ったのだろうかと思っていたら、道路が次々に作られて交差点だらけになり、ベイシアスーパーセンター、ベイシア電気、すばる書店(当時)がオープンし、ケーヨーD2(当時)がオープンし、周辺にも次々に店や住宅ができて、あっという間に渋滞のメッカになってしまいました。
今は洋服の青山、焼肉キング、ビッグハウス(というスーパーマーケット)、ニトリ、24時間ジム、サイゼリヤなどがあります。
僕が子供だった頃、よく近所のおじさんなどから、昔この辺りは一年畑だったんだぞと聞かされたものですが、今は僕がそれをいう立場になりました。
津田沼校の講師室で、昔の津田沼の話をしたら、そこまで古い津田沼のことを知らない先生方は驚きながら話を聞いてくれました。
街は常に変化し続けています。
今から20年後、40年後の津田沼もまた大きく変わっているのでしょう。
この度、船橋西武の跡地には千葉県最高層のタワーマンションが建設されるそうですが、津田沼もこの後さらに変わっていくのでしょう。
今回はこんなところです。
ありがとうございました。